刮目せよ! これからのキリスト教的神論に欠かせぬ一書
〈評者〉阿部善彦
著者の人柄は本選集に詳しいので略歴のみ記す。一九四五年生まれ。現在、カトリック渋谷教会主任司祭、東京純心大学教授を兼務し、今も私の何十倍も働く(東京大学名誉教授、元上智大学神学部教授)。研究は聖書学、神学、哲学にわたり国内外で業績多数、育てた学者多数。トマス・アクィナス、そして、私が研究しているマイスター・エックハルトと同じ、ドミニコ会士。卓越した修道者・学究者として国際的に高い評価を受け、日本人として史上初の「Sacrae Theologiae Magister」の称号をドミニコ会より授与される。
本書は宮本の思想的エッセンスたる「エヒイェロギア」を、思索の原点と展開とともに鮮やかに描き出す。本書を世に出した編集者、出版社の先見と功績も称えたい。
宮本の思索の原点はイエスである。若き日から今日まで一貫して、宮本は、イエスがご自分を同じ者とされた小さき者の、その一人ひとりのなかにイエスを見出す探求の道を歩き通す。そして、今、その一筋の道に「エヒイェロギア」が浮かび上がる。東京大学で哲学に取り組み、ドミニコ会に入会後は諸国遍歴遊学し、聖書と神学を修めるが、その際にまず取り組んだのが、イエスを通じて出会ったヘブライ語聖書の中の神である。本書のタイトルにある「エヒイェロギア」の「エヒイェ」(宮本はこれを「脱在」とする)は、出エジプト記3章14節のヘブライ語原文「エヒイェ・アシェル・エヒイェ」(ありてある者)という神啓示による。
たいてい「存在」(ラテン語でエッセ)と取られるこの語を基盤とするトミズム的神学がトリエント公会議以降の司祭養成をなお支配する時代に、若き日の宮本は、ドミニコ会の先達、遊行の巡礼者・押田成人(一九二二~二〇〇三)より、「存在」に躓いた西洋神学が生み出す無数のトマスのエピゴーネンに成り果てぬよう教えられた。押田のトマス読解は、入会以前より『神学大全』精読を続けた宮本の歩みを照らす。宮本の「エヒイェロギア」は絶望的に分厚い近代トミズム伝統の桎梏からトマス本来の「存在」理解を解き放つ悪戦苦闘でもある。同じく「存在」の近代神論の限界に着眼したのが有賀鐵太郎(一八九九~一九七七)であり、「エヒイェ」により「ハヤトロギア」を提唱し教理史の面目を一新した。
この方面は各自の本書実見・味読に委ね、本書の白眉、良寛・宮澤賢治・石牟礼道子論に言及し擱筆したい。これらは「エヒイェロギアの体現者」論をなす。本書副題の通り「エヒイェ」(脱在)とは「自らを超えゆく神」の存在動体。脱自して世界を造り、自らと同じ姿を人に与え、手ずから肉をととのえ、直接の息吹で生かし、ついには最愛のひとり子の受肉による救済という途方もない自己無化を通じて、全人類を同じ命を分け合う神の兄弟姉妹の相生の内部にまるっと包み込む、この創造と救済の全史を貫き「自らを超えゆく神」=「エヒイェ」(脱在)として今この瞬間も啓示し続ける神の存在動体が、良寛・宮澤賢治・石牟礼道子のいのちと言葉の隅々に鮮明に体現・啓示されてあることに、我々は宮本の求道的読解を通じて出会う。刮目されたい。



















