深い黙想から語られる喜びの物語
〈評者〉朝岡 勝
本書は、私たち日本の教会に、日本の教会を建て上げる神学に、その最前線を担う実践神学、とりわけみことばに仕える説教学に、そして何よりもみことばを説き明かす説教者たちに多大な貢献を果たされた加藤常昭先生を記念する説教集です。神学的著述としての「説教」の意義を繰り返し語られた加藤先生を記念して、加藤先生のもとで説教の研鑽を続けて来られた希有な神学運動である「説教塾」によって、五冊目となる説教集がこうして編まれたことを意義深く思います。
本書ではマルコ福音書の全体(但し一六章末尾の二つの追加分を除く)が、四六名の説教者により五一篇の説教として説き明かされています。四六名の内訳は一三の教団教派と三つの単立教会に及び、四四人の牧師・教師(男性三六名、女性八名)と二人の信徒による説教が収められています。こうした点にも、「三〇を超える教派からおよそ二五〇人の説教者が加わる」(四頁)説教塾運動の拡がりと豊かさの一端が反映していると言えるでしょう。
バラエティに富んだ説教者たちによる連続講解説教でありながら、そこに共通して存在する説教の「かたち」あるいは「テイスト」が読み取れるところにも、本書のユニークな特徴が現れています。そこには「マルコ福音書」が発するメッセージの一貫性はもちろんのこと、説教者固有の実存、それぞれの置かれた教会的現実、目の前の聴衆の姿に違いはあるものの、説教塾で学ばれた説教者たちが共有している説教の「理解」と「作法」が見えてきます。それは評者が読み取ったところでは、「あとがき」で徳田宣義先生が触れておられる「第一の黙想」と「第二の黙想」の徹底した修練と、それによって獲得された黙想の実践が、一つ一つの説教の全体に及ぼしている濃厚な影響です。
いわゆる「序論」・「本論」・「結論」という伝統的な定型から離れて、「聴衆」の黙想を重ねながらみことばの現実と聴き手の現実が重ねられていく語り口、第一の黙想で聴き取ったテキストの核心から、釈義的考察や神学的黙想によって広げられ、深められていく講解の作法、それらが相俟って、鉛筆書きのデッサン画がやがて輪郭が立ち上がり、色彩を帯びて一枚の絵画として描き出されるように、あるいは水の中に注がれる絵の具がしだいに渦を巻いて、やがて紙に染み込んでいくマーブル画のように、みことばが生き生きと目の前に立ち現れてくるのです。
それだけに、五一篇の説教のうち約半数近い二一篇が「未発表」であることはやや意外でした。本書編集の背景を存じ上げないので的外れなことかもしれませんが、それらは本書刊行のために準備され書き下ろされた説教なのだろうと想像しつつ、やはり生きたみことばの聴き手たちに向けて実際に語られた説教であるか否かは、その説教に決定的な影響を与えると思われるからです。
最後に、いくつもの心に残ることばの中から、「説教」を説教たらしめる核心を言い表す池田慎平牧師の次のことばが評者の心に深く響いています。
「牧師が説教で語ることは、私たちが礼拝全体を通して受け止めようとしていることは、いつだって神の『私だ』という力強い御声を聴くことであります。今、ここに神がいてくださる。その確信があれば、この愛の一言があれば、私は、私たちは生きていくことができるのです」(二〇二頁)。





















