物語る教会の、説教としての教義学
〈評者〉朝岡 勝
今年二月一〇日、ライブ配信された芳賀力先生の東京神学大学最終講義を聴きながら、先生が歩まれた「神学の小径」に思いを馳せました。「小径」とのタイトルとは対照的な、全五巻約二千頁に及ぶシリーズの性格を評者なりに表現するならば、「父・子・聖霊なる三位一体の生ける神の御業を、神の語りである啓示に基づき、歴史にあらわれた神の語りの道筋に即し、教会共同体の文法に従い、世界に散らばる小さな物語と対峙し、豊富な神学的知識と強靱な神学的思惟をもって語り抜いた、神の語りに応答しつつ旅する『物語る教会』としての教義学」となるでしょうか。
最終巻となる本書では、「成就への問い」として教会論、聖化論、終末論が扱われます。「完成への問い」との構想が「成就へと問い」と変更された経緯が第四巻の「あとがき」に記されており、そこには神の国の完成に向けた神学の未完性と途上性、開放性と、神の国の「すでに」と「いまだ」の二重性が示唆されています。第一巻で「教会は、神の大いなる業を世に向かって宣べ伝える物語る教会(エクレシア・ナランス)として誕生した。それは、終末において起こるであろうと預言されていたことの成就である」(一八頁)と語り、本巻では「終末的信仰とは、キリストによって始められた神の国の成就を端的に信じることにほかならない。それ故、中間時を生きる私たちの最後の問いは、成就への問いとなる」(四三一頁)と言われます。
そこで成就への問いは、神義論的問いから始められます。「キリストにおいて救いがすでに起こったというのに、なぜ私たちはまだ嘆きの谷の中にいるのだろう。なぜ私たちの教義学は、救済への問い(Ⅳ巻)をもって終わらずに、なお成就への問い(Ⅴ巻)を待たねばならないのか。それは、まだ神の国が完全な仕方で到来していないからである」(一四頁)と言われ、その中間時を生きつつ、聖書に基づく「預言者的=使徒的洞察力」をもってこの世界を読み解く「希望の解釈学」が必要とされると読者に語ります。そこから二つの命題、「苦難は神関係を純化し、救済への問いを目覚めさせる」(二二頁)、「苦難は神関係を濃密化し、御子と聖霊を通して義認と聖化に与らせる」(二四頁)、を示し、命題三として「苦難は神関係をアドベント化し、世界を救済待望的にする」(三〇頁)ことを示します。これこそが本書の後半部の終末論の基調となっています。
著者は、救済史の担い手としての教会は、神の国の成就に向かって、身体と生命、労働と文化、結婚と家庭、国家と政治、教会と礼拝のあらゆる分野において聖化の途上を歩み、やがて完成の時に喜びの祝宴にあずかると言い、それゆえに「教会は世界の中でのこの希望の砦である」(三九一頁)と結びます。本書は読者がこの希望に支えられて小径を辿り、踏み固めることで、やがて一つの確かな道となり、それをもって「物語る教会」が建て上げられるようにと招くのです。こうして終わりまで読み進めてみて思うのは、「これは説教としての教義学だ」ということです。
最後に、各章で本論に続いて記される「ノート」、「幕間のインテルメッツォ(間奏曲)」、「あとがき的命題集」、そして各巻巻末の通算三三五問の「信仰の手引き」。これが一つにまとめられることも評者のひそかな願いです。
朝岡勝
あさおか・まさる=東京キリスト教学園理事長・学園長、市原平安教会牧師