闇夜で触れた神の存在への探究:新・普遍啓示論の誕生
〈評者〉阿部善彦
「傘の神学」と題する本書は、筆者の神学的挑戦から生まれたものであり、前著『人生のすべての物語を新しく:シェルターの神学から傘の神学へ』(教文館、2020)をふまえながら、神の存在を普遍啓示論として問い直している。
個人的なことを言えば、立教大学に勤めるようになって属格の神学という言葉があることを知った。それまでずっと哲学科・哲学研究科で勉強してきたため、教派教団の看板を背負って神学する人たちの苦労というのもよくわからなかった。他方、筆者は、教団内で経験を重ね、教義にかんする重要な役目を担う立場にありながら、所属する教団の教義的柱である「罪の赦しの福音」の限界─それは本書が示すように西洋近代キリスト教全体の根源的欠陥に通ずる─を正面から指摘し、それを克服する神学を提示する。
筆者のその捨て身の挑戦は救いのよきたよりを必要とする人たちに「福音」を十分に届けえなかったという宣教者としての反省に裏付けられているが、それはただ教勢(統計)を見つめた机上の反省ではない。筆者は自らにとって神が何であったのかを、取り繕うことなく、丸裸になった誠実さ(エメト/アレーテイア)によって求道的に問い直す。
神とは何か。それは偶像である。人は神ではなくこの世とこの世の栄光に絶対的信をおいて生きている。この偶像が破壊されないかぎり生ける神との出会いはない。このテーマは、民の繁栄の約束である我が子イサクを神にささげるために刃物を手にしたアブラハムの苦悩をはじめ、ヘブライ語聖書で人と神のかわらぬ真理として繰り返し現れる。
偶像が崩壊する時、人はそれを試練と呼ぶ。筆者にその時は東日本大震災の直後に生じた。想像しがたい苦しみと悲しみに打ちのめされた人たちを前にした筆者から、神の存在を語る言葉が奪われる。神の存在を語る神学も説教も不可能となった筆者がこの世で目にするものから受けとったただ一つの言葉は「神も仏もあるものか」であった。
しかし、目に映るこの世界に神を見出せない信仰の暗夜の中に落ち込んだ時に「全身を貫」く神御自身の〈わたしはある〉という言葉によって、筆者は肉身のいのち内部で生ける神と出会い直す(8頁)。いのちの内部で、この啓示によって神御自身のいのちに触れた筆者は、その信仰の暗夜─既存の神学と説教の不可能性─の内部で〈わたしはある〉と御自分を与えてくださった方の存在を手探りで追う。
本書の言う普遍啓示とは、筆者に〈わたしはある〉と御自分を与えた方が全人類・全世界の創り主、救い主であり、キリスト教以前より御自分を普遍的に─諸宗教と諸文化において─啓示してこられたということである。確かに「啓示」は概念史的にもキリスト教に先立ち、独占されない。
キリスト教の唯一絶対性は、諸宗教と諸文化の独善的排他的な否定・拒絶ではなく、全歴史を貫くこの普遍啓示の究極的完成─あまねく御自分を示される神にだれもが出会うこと─にある。それゆえ本書の普遍啓示論は救済論かつ宣教論でもある。だれもが神御自身のいのちに触れ、受肉された御言葉・キリストと聖霊によって「アッバ、父よ」と呼ぶ霊に満たされて「ただひとりの父、天におられる父」と出会うために生み出され、招かれている。傘の神学にさらに学びたい。
阿部善彦
あべ・よしひこ=立教大学文学部教授