革命的な宣言としての主の祈り
〈評者〉石田 学
ドミニク・クロッサン、この刺激的で挑戦的な新約学者が、イエスの「アッバの祈り」に基づいて「主の祈りを再発見」させてくれる著作です。本書はクロッサンの学術的研究を基盤としていますが、専門的な研究書ではなく、研究に裏付けられた、イエスの教えについての解釈であり、かつ現代のわたしたちに対する祈りへの招きです。著者自身が本書を「イエスのアッバの祈りに関する聖書的黙想の書」(二三二頁)と呼んでいるとおりです。わたし自身読みながら何度も黙想させられました。
クロッサンは主の祈りを、宗教の枠を超えて、全世界に対して意味のある祈りであるという確信を込めて、こう定義します。「私にとって、主の祈りは革命的な宣言であり希望の賛歌です」(四頁)。プロローグとエピローグ、そして八つの章で構成されている本書は、章ごとに主の祈りの項目を一つずつ取り上げていますが、各章はそれぞれの祈りを独立的に扱うのではなく、一つの祈りの項目が次の祈りへと、クロッサン自身の言葉によれば「クレッシェンド」的につながってゆきます。どの章も、古代から現代までの多岐にわたる物語から語り始められます。第一章が空港の電気コンセントの物語から始まり、第二章は紀元二世紀の一人のユダヤ人女性の話から始まるといったように。そしてそれぞれの物語が、隠喩として各章の祈りの主題につながります。
最初の二つの章でクロッサンは、神を父と呼ぶことは神が世界の世帯主であることの表明であり、パウロが「アッバ、父よ」と呼びかけることは、人が神の相続人であり、「世界という世帯ですべてが充足するようにする神の力と責務を引き受けている」(六七頁)ことだと語ります。すべての章をとおしてクロッサンは、イエスが人々に示した代替的なビジョンは、分配的正義と修復的正義であり、それは旧約の伝統に鳴り響いていた主題であることを明らかにします。その正義は決して暴力的なものではあり得ず、徹底して非暴力によるものです。「我らを試みに遭わせず」という祈りは、正義を、たとえそれが防衛のためであれ、暴力によって実現しようとする誘惑を斥ける祈りであるとの解釈は、まさに今の時代に必要なことです。
エピローグでクロッサンは、聖書の物語る、非暴力的な分配的、修復的正義の神と、報復的、刑罰的正義の神という、相容れない神理解について語ります。コンスタンティノープルのコーラ修道院に描かれたパントクラトールがなぜ手にした聖書を読んでいないのかを譬えとして、「非暴力の受肉者キリストが、黙示思想に見られる暴力的なキリストに挑戦し、裁きを下すのです」(二三七頁)と述べるクロッサンの聖書観に共感させられます。本書はとても挑戦的です。読後には、もはや主の祈りを決まり切った祈りとして唱えることは難しくなることでしょう。
訳者あとがきによれば、最初お母様のために翻訳されたとのことですが、そのこともあってか、たいへん読みやすく分かりやすい日本語です。これからもキリスト教著作の翻訳での活躍を期待します。河野克也氏の解説も的確で、クロッサンについて、また本書の特徴についてよく理解できます。最初に解説を読むことをお薦めします。
大貫隆
おおぬき・たかし=東京大学名誉教授、新約聖書学