詩人と聖書の関係を解き明かす一冊
〈評者〉時澤 博
本書は、著者が五十年以上前に初めて聖書に触れた時から生じた問題意識を元に、聖書と詩人の関わりを考察している秀でた評論である。その経緯を詩人である著者自身が「はじめに」(3−4頁)と「あとがき」(277−278頁)で、明らかに示してくれている。
近代詩を開拓した先駆者としての島崎藤村に始まり、牧師詩人として活躍した森田進に至るまで、十六人もの厖大な詩人と詩作品を取り上げ、精緻で透徹な分析を試みている。例えれば、僕らは橋の袂から下を覗き、川の潺が語りかける心地良い響きを耳にするようであり、鳥の地図(あるとしたら)を手に大空を飛翔しながら、次々と眼下に拡がる世界を、驚きつつ俯瞰している感覚でもある。
装幀はFrank Andreeの写真が、モノトーンの精錬されたデザインで配置されており、本書の内実に相応しい装いを纏っている。
それぞれの章もよく整理されており、日常生活において、詩とはあまり触れ合うことの少ない読者にも、十分興味を抱いて読める内容となっている。①詩人の生涯②詩作品③まとめという具合に。さらに終章(247−255頁)においては、個々の総括を簡潔に提示してくれており、読者への行き届いた配慮を感じさせる。
詩作品は聖書との関わりのなかで創られたゆえ、当然と言えば当然なのだが、著者はその聖書テキストの歴史的背景や言語・教義的意味付を把握し、豊富な資料を元に丹念に解説している点にも注目したい。
特に印象深く受け止めたのは、島崎藤村の原罪意識の希薄さから現わされた、恋愛・愛欲へのすり替え。聖書の持つ厳格な意味を緩めて、恋愛詩へと変容、傾斜させたという点である。多くの日本人にとっての美意識に、少なからず影響を与え続けていることを思う時に、改めてこの詩と詩作品に向き合う大切さを教えられた。
他にもプロテスタント教会での評価が分かれる、山村暮鳥の詩「十字架」をめぐる苦悩とキリストとの結び付きについて。又、比較的に歓待されている八木重吉への深い洞察。「静かさ」と「ほのお」の深層描写。戦後詩の担い手としての、石原吉郎と安西均。石原を「表現する詩人」、安西を「物語る詩人」と定義している視点にユニークさを感じた。四季派の叙情詩人たちの中で、私の詩の導き手でもあった、嶋崎光正を取り上げていることにも注目した。女性詩人の片瀬博子や塔和子、牧師詩人の森田進と…興味は尽きない。
本書の結論にあたる部分(256−260頁)においては、余白をめぐる重要な見解が述べられている。聖書の淡々とした叙事的な記述に接すると、行間から生まれる感性と想像の翼は、中空に飛翔し、創作者の内部で何者かが胎動し始める。この余白を贖う者の正体こそ、ルーアハ(へブル語)=プネウマ(ギリシャ語)=風・霊(日本語)であると規定している。
蛇足を承知で言わせてもらえれば、柴崎聰という詩人の原点が、故郷仙台を離れた若き日、横浜の下宿の四畳半で書いた「窓外」という一篇の詩であったことに、私は底知れぬ感動を覚えたのである。
時澤博
ときざわ・ひろし=日本キリスト教詩人会会員・百万人の福音「旅人の詩」選者