
春に教会を移り、住まいも変わった。しかし、本棚はいまだ段ボールのままである。箱の側面には「神学」「説教」などと書かれ、中身のおおよその見当はつく。けれども、なかなか開けることができない。正確に言えば、開けても、以前のようには読み進められないのである。多くは、屋根裏に放り込んだ。
以前の私にとって、読書は自分を前に進めるための営みだった。線を引き、余白に書き込み、説教や講義へとつなげる。読むことは世界を理解し、自分を少し賢くしてくれる営みだと思っていた。本棚は、そうした歩みの記録でもあった。
ところが最近、数ページ読んでも意味が頭に残らないことがある。ふと気づくと、同じ箇所を何度も目で追っている。若い頃に夢中で読んだ本を開いても、今の自分には少し遠い。かつて引いた線や書き込みも、別の誰かの筆跡のように見えることがある。
それでも、不思議と手放せない本がある。学部時代、仲間と背伸びして読んだヴェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』。信仰と言葉の結びつきを教えてくれた恩師たちの本。何度も読んだはずなのに、今になって別の箇所で手が止まるナウエン。ページをめくると、若い頃の線が少し濃すぎると感じた。あの頃の私は、何をそんなに急いで理解しようとしていたのだろう。
疲れている時、人は、あまり整いすぎた言葉を受け取れないのかもしれない。励ましの言葉でさえ、すぐには心に入ってこないことがある。ただ、自分より先に立ち止まった人の言葉だけが、辛うじて手元に残る。
片付かない段ボールの前で、ときどき一冊だけを取り出しては、数ページ読んで、また閉じる。本を読むとは、本当は、前に進むためだけの営みではなかったのだと思う。
その本を、私はまだ捨てられずにいる。
(とくだ・まこと=日本キリスト教団高の原教会牧師)
















