ポストモダンの信仰、その真剣な探求
〈評者〉坪光生雄
ジーザス・イン・ディズニーランド
ポストモダンの宗教、消費主義、テクノロジー
デイヴィッド・ライアン著
大畑 凜・小泉 空・芳賀達彦・渡邊翔平訳
四六判・336頁・本体3500円+税、新教出版社
本書は、監視社会論で知られる社会学者デイヴィッド・ライアンが、ポストモダン社会における宗教のあり方について論じた著作である。著者は、長らく宗教社会学の主流を占めてきた世俗化論に再考を迫る自身の立場を、すでに『尖塔の影│世俗化の神話と現実』(一九八五)のなかで鮮明にしていた。そのおよそ一五年後に執筆された本書は、著者が九〇年代に取り組んだポストモダニティを巡る考察を踏まえ、世俗化論に代わるオルタナティヴな理論的枠組みの構想をいっそう明確に打ち出した内容となっている。
二〇世紀、多くの社会学者たちが近代化の時代に宗教の辿るべき運命を否定的な仕方で描き出してきた。近代化によって宗教は衰退し、近い将来消滅する、もしくは私的なことがらとなって公の舞台から姿を消す、というのがおきまりの物語だった。しかし本書によれば、このような見通しはポストモダンの時代に妥当なものではない。従来の世俗化論の誤りは、「宗教」を制度的な形態として想定した点にある。ライアンは、「脱統制」されて非制度的な形態をとるようになった現代の「宗教」の諸相を、多くの印象的な事例に即して描き出していく。表題にもなった「ディズニーランドのイエス」という隠喩は、このポストモダンの流動的な信仰のあり方を見事に形象化したものだ。このとき「宗教」とは確固たる制度的基盤や信念体系に伴われた権威の源泉ではない。むしろそれは文化的資源の一つ、消費者が自由な選択によって買い求め、自己の個性的なアイデンティティ構築に役立てるような何かであろう。支配的な大きな物語(メタナラティヴ)が断片化した地点に、人々が宗教的信仰と実践の自由な探究へと漕ぎ出していくフロンティアが広がったのである。
原著が書かれてから二〇年以上経って本書を読む私たちは、「ポストモダン」という言葉そのもののうちに、すでに乗り越えられた過去の響きを聴き取るかもしれない。この語はしばしば浅薄なもの、真剣さの欠如、道徳的な相対主義といったイメージに結びつけられる。しかし、本書におけるライアンの最も力のこもった主張は、「現代の宗教的選択には信仰の真剣さもまた反映されている」(一七四頁)というものである。生き方のモデルや信念が一様でなくなった時代には、外的な権威への服従ではなく「本物の自己」の探求がますます焦点化されてくる。切実なアイデンティティへの要求から、現代人が「宗教」を自己流に、しかし真剣に選び取るということは大いにありうる。この洞察は、今日なおまったく古びていないように思われる。
本書の結びでは、自身キリスト教徒である著者が「信仰の未来」に投げかける肯定的な展望が語られる。ライアンは、特殊性を顧みない近代的理性と、普遍性を解体するポストモダン的懐疑との双方に代わるオルタナティヴな可能性をキリスト教に見出している。普遍と特殊の和解というテーマは、グローバル資本主義のもたらす歪みが様々な仕方で意識される今日、あらためて広く取り組むに値するものだろう。単純な乗り越えの物語ではない肯定的なポストモダン論を、いま優れた翻訳で読めることを喜びたい。行き届いた訳注にもたいへん助けられた。
坪光生雄
つぼこ・いくお=一橋大学大学院社会学研究科特任講師