神学的議論の旅の出発点として
〈評者〉阿部善彦
最近、教父学にかんする著作の刊行が続いている。そのなかで本書の際立った特徴は教父たちの思想の紹介というよりも、教父たちが文字通りその身を投げうって取り組んだ問題の探究の内がわに読者を引き込むことを目指していることである。教父たちが探究した問題とは、つまるところ、キリスト教とは何か、という問題である。そのような問題理解は、本書のタイトルとサブタイトルに存分に示されていよう。
しかし、キリスト教とは何か、とはいかなる問題なのか。本書が示すように「キリスト教の生い立ち」から見れば、それは、イエス・キリストはいかなる者であるのかという問いに直結する。それは、教父たち自身が自らの信において受け取っている真理であるイエス・キリストに全身全霊で肉迫し、それを言い表し、他者とともに分かち合おうとした、その根本的な探究態度に裏づけられた問いである。それゆえに、その探究は、また、キリスト教とは何で無いのか、イエス・キリストはいかなる者で無いのか、という問いと密接する。それは、自らのうちに抱かれた信が受けとっているものが真実に何であるのかを、人間的理解の限界の自覚に立って虚心に見つめ直す探究態度にもとづく問いであり、そこに人間自身が生み出す数々の疑似的神理解との厳しい対決が生じる。
こうした教父たちの探究は神と自己をめぐる愛智的探究であり、タイトルにあるように、その「教父哲学」によって著者は読者をキリスト教の探究へと、すなわち、イエス・キリストはいかなる者であるのかという問いとその探究へといざなう。そこで著者はサブタイトルの通り問いを三つ提示する。一、「なぜイエス・キリストは《御言葉》と呼ばれるのか」(本書第一章)。二、「なぜイエス・キリストは《子》と呼ばれるのか」(本書第二章)。三、「なぜイエス・キリストは《神の像》と呼ばれるのか」(本書第三章)。
これら三つは本質的な問いであるだけに、そこから高度に思弁的に練り上げられた膨大な神学的議論が積み上げられてきた。実際、数々の概念や論争の経緯を辿っていると、肝心のキリスト教やイエス・キリストのことが分からなくなる眩暈に似た経験をした人もいるだろう。でも安心してほしい。著者は立ちすくむ読者の傍らに立って背中を押して一歩ずつ同行してくれる。出発点となる聖書(この場合、特に七十人訳聖書と新約聖書)のなかに、神、救い主、イエスの姿を丁寧に示しながら、教父たち(また護教家たち)がそれをどう受けとり、時代の哲学的・精神的潮流の中で何をどのように語ったのか、その絶妙なポイントを開示してくれる。
本書第三章は白眉であって、生老病死、喜怒哀楽に満ちた人間に降下し神御自身の生命に与る者として引き上げてくださる神の救済の御業の理解は、ギリシア教父に注目した本書ならではのもので、読者も得るところが大きいと思う。あとがきにあるように、著者が若い「友人たち」と呼ぶ大学院生とのリモート読書会での出会いなど、様々な人とのつながりから生まれた本書がこれから多くの読者をえることを、著者のあたたかい人柄を知るひとりとして心から願ってやまない。
阿部善彦
あべ・よしひこ=立教大学文学部教授