非暴力の「最初の朝食」を
〈評者〉佐藤真史
「非暴力のイエス」と聞いて、ピンとくる人は、どれくらいいるだろうか?
わたし自身、ほとんど何も知らなかった。教会や幼稚園で分かち合ってきたメッセージが、「非暴力のイエス」を描けていなかったことをまざまざと突きつけられ、自分自身が揺さぶられる思いがした。本書に真正面から向き合い、それを生きようとするとき、徹底した「イエスの道」が見えてくる。「イエスは、私たちがただ語るだけ(just talkthe talk)でいるのではなく、彼の道を行くこと(walkhis walk)を求めて」(9頁)いるのだ。これは神学者ボンヘッファーが警告した「安価な恵み」とは真逆の道といえるだろう。
著者は、レント(受難節)を「イエスの非暴力の足跡を再び歩き始めるのに良いとき」(9頁)であり、「回心のとき」(12頁)だとする。この「非暴力への回心」のために、20の「黙想と問い」が繰り広げられていく。
また、本書に散りばめられた訳注から、こんなにも訳者の知性と思いが伝わってくるのも珍しい。特に最長の訳注では2ページ(!)を使って、ジョージ・サベルカ神父を解説する。原子爆弾を投下したエノラ・ゲイ号(広島)およびボックスカー号(長崎)の搭乗員を祝福した神父が、戦後、悔い改めと罪責告白へと導かれた。「非暴力への回心」は確かに起こっているのだ。
著者は、「壊れたレコードのように同じことを何度も繰り返す」(143頁)ことを厭わない。強調するメッセージは明快である。「イエスは非暴力」であり、その「道」に従うキリスト者は「福音的非暴力の実践者」(9頁)となることが求められている、ということだ。
特に心を打つのは、ユーカリスト(8章)と復活(18章)についての大胆な解釈である。
聖餐式(ユーカリスト)において、教会では「最後の晩餐」におけるイエスの言葉を引用しているが、「ガンディーの非暴力の解釈に照らしながら考える」(95頁)ことはまったくなかった。そのレンズを通して見るとき、イエスが受難においても徹底して非暴力を選び続けていたことに気付かされた。イエスは「その人たちの体を私のために裂きなさい!」と復讐するのではなく、自らを「新しい非暴力の契約」として差し出した。「戦争で他者の体を裂くな。他者の血を流すな。私があなたがたのためになしたのと同じように、他者のためにあなたがたの命を非暴力的に与えなさい。これが私を記念する最良のあり方である」(96頁)。
この解釈は、暴力の世界に生きるわたしたちが受け取るパンと杯を、まったく新しいものにしている。
復活したイエスの解釈にも目を開かされる思いがした。裏切りと逮捕、十字架刑を前に、逃げ出した弟子たちがいた。にも関わらず、復活したイエスは、そんな弟子たちに復讐も非難も裁きもしなかった。その代わり、弟子たちのために「朝食」を作り、その食卓へと招く。「最後の晩餐から最初の朝食」(178頁)への転換が起こっているのだ。
さらに著者は「炭火」(179頁)に注目する。イエスのことを三度知らないと裏切ったペトロが、裁判所の庭で暖を取っていた「炭火」。聖書には同じ「炭火」という言葉が、ほかにもう一箇所しか出てこない。それは、復活したイエスが「炭火」でペトロたちのために魚を焼いていた場面。もはやそこは暴力に満ちた裁判所の庭ではない。非暴力の「イエスの庭」へと転換しているのだ。
暴力の「炭火」が燻り続けるこの世界にあって、わたしたちは非暴力の「最初の朝食」をつくり出していきたい。














