神学的表現の豊かな可能性を描き出す
〈評者〉芦名定道
本書が目指すのは、アジアの「抒情伝統」を参照することによって、「アジア・キリスト教神学」を構築するという大胆な神学的試みである──厳密には「アジア・キリスト教神学を書くことについて書いたものであって、その神学を書いたものではない」──。この「アジア・キリスト教神学」構想は現代日本のキリスト教を思想的に考える上で不可欠のものであり、キリスト教にとって意義深いものとなるであろう。宗教的多元性と科学に規定された現代アジアという理解に基づいて、科学思想と仏教哲学(これらは伝統的なキリスト教に「無」の自覚を促す)に注目するとの洞察は本書の独創性を示している。
本書の考察は、アジア・キリスト教神学に相応しい「文体」の探究をめぐり展開されており、その議論の緻密さと具体性、そしてそのために参照される文献(まさに古今東西の哲学、神学、文学をめぐる一次文献と二次文献)の豊富さは圧倒的である。前半の「第一部 なぜ文体が問題なのか」では、神学にとって重要なのは思想の「内容」だけなくその「表現形式」(文体)であることを、アウグスティヌスから説き始め、近現代の思想家の文体論や禅仏教と自然科学の文体の考察を経て、現代の作家たちの文体論まで視野に入れることによって、説得的に示している。後半の「第二部 「抒情伝統」とアジア・キリスト教神学の文体」では、神学にとっての文体の重要性を確認した上で、「無」に取り組む文学(川端康成)と哲学(西谷啓治)から「抒情詩」「根源的抒情性」が論じられる。ここでアジアの現代文学論を参照することによって取り出されるのが、アジアの文学伝統における「意境」論である。
アジア・キリスト教神学の文体を追究する上で、なぜ抒情伝統、意境論なのか。詳細は、本書を熟読いただくことにして、ポイントをまとめてみよう。現代キリスト教神学が直面する「無」は単に否定的なものではなく、むしろこの「無」という「底なしの深淵」を「真正面から突き抜ける」ときに「真の自己」が可能になる。そこには根源的構想力が作用しており(悟りの内容を示すイメージを生み出す)、「意境」とは根源的構想力によって生み出された芸術や宗教が切り開く世界を指し示している。本書が注目する抒情伝統とはアジアにおいてこの根源的構想力が具体化する方法(西洋の叙事詩や劇に対して)であり、中国文学の伝統から東アジア文学の伝統の全体に及んでいる。抒情伝統は仏教の影響下で形成されたものであり、その点において、「仏教的伝統との対話によって造形されるアジア・キリスト教神学に相応しい書き方を提供」することが期待できる。
以上は本書の豊かな内容の一端に過ぎない。この書評を結ぶに当たって、本書の意義について、補足的な指摘を行ってみたい。本書では、アウグスティヌスから現代神学(特にバルト)に至る文体の意義が論じられるが、これは、二〇世紀に多様な仕方で展開された現代思想における「言語論的転回」と関連付けることができる。そしてこの言語論の中心にレトリックや文体は位置している(聖書学との関連も重要)。本書が読者を招くのは、現代思想との対論においてアジア・キリスト教神学を構想するという魅力的な試みなのである。


















