その歩みは、愛そのものだった
〈評者〉吉澤慎也
「じわっと、心に沁みてきます」
「気づいたら、涙が出ていました…」
「なんだか、よくわからないけれど、元気が出ました!」
そんなふとした声が聞こえてきそうな本だと、一読して感じました。
本書は、大頭眞一先生によるマルコの福音書説教集の第三巻です。おそらく全体では四部作となるのでしょう。それらを起・承・転・結になぞらえるなら、既刊の第一巻『時が満ちて』と第二巻『わたしを誰と呼ぶか』は、マルコの福音書におけるイエスの公生涯の「起」と「承」を巧みに言い表したタイトルだと思います。
そして、マルコ9章1節から12章34節までの講解説教を収めた第三巻『この杯を飲め』もまた、「転」にふさわしい緊張感をまとった、まことに言い得て妙なタイトルではないでしょうか。「杯とは十字架のこと」(131頁)と解説する説教「仕えてくださるお方」には、不思議なことに、「この杯を飲め」というフレーズそのものは登場しません。それどころか、マルコの福音書自体にも直接には出てこない言葉です。しかし筆者は、この言葉こそが、第三巻に収められた聖書箇所全体に通奏低音のように流れている、神からイエスへの招きの言葉なのだと受け取りました。
実際、イエスが初めてご自身の十字架と復活について語られたのは8章31節です。そして本書が扱う箇所は、その直後から始まり、イエスが十字架にかかられるまでの最後の一週間を克明に描きつつ、そのまさに途上で幕を閉じます。なんとも続きが気になる、いちばん肝心なところで終わるのです。この箇所でマルコが描き出しているのは、杯を飲むために進んで行かれたイエスの姿です。そして、その歩みは「愛」そのものだった──これこそ、大頭先生の二十篇の説教すべてに通底する主題です。「この杯を飲め」と招く愛なる神と、その招きに応答されるイエスの愛。大頭先生は、難解な箇所や、ときに誤解されやすい箇所からも、イエスの愛を丁寧に描き出し、その愛を、実直に、ひたすらに、ときに不器用なほどまっすぐに語り抜きます。そして、その愛が私たちの心に語りかけ、刺さり、響いてきます。これらの説教が実際に礼拝で語られた時期が、ちょうど受難週やイースターと重なっていることもまた、緊張感をいっそう際立たせていると言えるでしょう。
筆者は、第一巻も第二巻も読まず、まず第三巻から読み始めました。もちろん、既刊を読んでからのほうが理解はいっそう深まるはずです。しかし、第三巻だけを読んでも、とくに支障を感じる箇所はなく、十分に伝わってくるものがあります。大頭先生の真骨頂は、物語の連続性をしっかり保ちながら語っている点にあるからです。たとえバラバラにつまみ食いするように読んだとしても、読者はいつの間にか、その背後にある神の物語へと引き込まれていくことでしょう。
本書は、たとえば毎日のデボーションや静思のときに、一日一章ずつ味わいながら読むのに用いられたら、すばらしいと思います。焚き火仲間(大頭先生のオトモダチ)が説教や神学議論のネタ本として用いるのも楽しそうですが、それだけではもったいない一冊です。本書から溢れ出るイエスの愛が、より多くの人のもとに届きますように。













