「敬神奉仕」という理念の相互性・総合性の結晶
〈評者〉小暮修也
「神である主を愛し、隣人を自分のように愛しなさい」というイエスの御言は「敬神奉仕」「敬神愛人」「畏神愛人」「神を仰ぎ 人に仕う」「愛神愛隣」と若干表現を変えつつ、キリスト教学校の建学の精神、スクールモットー、標語となっている。日本のプロテスタント系キリスト教学校では、96法人のうち21法人が掲げている(『加盟校の歩み 創立の礎』キリスト教学校教育同盟創立百周年記念、二〇一一年)。
本書は東洋英和女学院大学の礼拝説教を学術的に体系化し、スクールモットーである「敬神奉仕」という理念に基づき学院の教育と宣教が行われていること、さらにこのモットーが聖書全体の文脈に結び付いた根幹的な理念であることを明らかにするものである。
本書を読み、改めて気づかされたことの第一は「敬神奉仕」が神の先行する愛と恵みに応答する人間の生き方であるということである。〈わたし〉が神を愛し、〈わたし〉が隣人を愛するというその前に、神が私たちを愛され恵みを与えてくださった。その与えられたものへの応答としてのレスポンシビリティ(責任・応答可能性)が「敬神奉仕」であるということで、このことを肝に銘じたことである。
第二に、イエスの愛を見つめ、苦難の中でも信じて歩み続ける生き方である。アメリカの公民権運動指導者マーティン・ルーサー・キングJr.がイエスにならって人を愛そうとした(I did try to)、仕えようとしたこと、ノーマ・コーネット・マレックの詩『最後だとわかっていたなら』を読んで「ごめんね」「ありがとう」「愛している」という何気ない言葉こそ、明日が来なくても後悔しないための小さな行為であり、そのように大切な人を大切に愛する一瞬一瞬を重ねて生きていきたい、と記す言葉に共感を覚えた。
第三に、これらの説教から採られた文章の向こう側には多くの若い人たちが存在することである。その人たちに伝えるために『アメージング・グレース』を作詞したジョン・ニュートンの話、『全盲の僕が弁護士になったわけ』の著者である大胡田誠さんの話、マックス・ルケードの絵本『たいせつなきみ』でのパンチネロの話、10歳で筋ジストロフィーを発症した石川正一さんの『たとえぼくに明日はなくとも:車椅子の上の17歳の青春』の話など、多くの人たちの生き方を紹介している。その生き方は若い人のみならず、年輪を重ねた人たちの心にも届くに違いない。
第四に、三人の著者が体験を語っていることである。家の鍵を入れたキーホルダーを失くした時に「見失った一匹の羊」のように思いもかけない人に助けられたこと、魂の渇きを覚え「事故に遭って今日が最後だったらいい」という考えがよぎり、生きる力が湧いてこなかった時に聖書を通して主イエスが語りかけてくれたこと、「愛は忍耐強い。愛は情け深い。妬まない。」この聖書の愛の部分に自分の名を入れてみると、あぁ、できていないなと感じるとの告白等を正直に語っていることに好感が持てた。
全国のキリスト教学校や教会が、本書を基にして「神である主を愛し、隣人を自分のように愛しなさい」という御言を深め、実践し、この御言の意味が若い世代を始め、多くの人たちに継承されることを願っている。













