日本伝道を阻む「壁」とは何か?
〈評者〉井ノ川勝
「教会は大丈夫だろうか」。死と向き合いながらも、最後まで祈りの中心にあったのは、日本の教会の将来であった。加藤常昭先生が逝去されてから二年が経った。教会の課題と直面する度に、加藤先生ならどのように捉え、考えられただろうかと思う日々であった。そのような時に、加藤常昭著『日本伝道論』が出版された。私たちが直面する伝道の課題に、加藤先生の語りかける声が聞こえて来る。
本著には八編の講演と一つの論文が収められている。第一部「日本伝道論」には、「日本に生きる教会の課題──日本伝道論」「日本人と罪の問題──日本伝道論において罪を問う」「日本人と罪」、第二部「日本における教会形成のために」には、「長老の牧会の務めについて」「受洗志願者への試問について」「長老会の任務──教育について」「洗礼と聖餐──『ハイデルベルク信仰問答』を手がかりとして」「私たちの教会の伝統に学ぶ──植村正久と高倉徳太郎」。これらの講演と論文は、神奈川教会連合長老研修会、信徒研修会、鎌倉雪ノ下教会全体集会で語られたものと、改革長老教会協議会『季刊教会』に執筆されたものである。一九七七年から一九九二年の文章であるが、今日の教会の課題、日本伝道の課題に、鋭く切り込んでいる。一貫しているものは日本伝道への「危機感と情熱」である。
加藤先生の生前の最後の著書は、『慰めとしての教会に生きる』(二〇二三年)である。今回の書物の各講演を貫いているパースペクティヴも、現代日本において、「慰めの共同体・教会」を形成する意味と課題である。このパースペクティヴは、最初の神学論文集『福音主義教会形成の課題』(一九七三年)から一貫したものである。日本伝道を阻む壁がある。しかし、壁には急所がある。その急所こそ、「人間の罪」である。「罪の感性」を知った時、教会が語る言葉も皮膚感覚に訴える「霊性の感性」の言葉となる。生けるキリストの罪の癒しを告げる、十字架の贖罪の言葉となる。植村正久、高倉徳太郎は「霊性の感性」の言葉を語った。先達の説教の伝統を学び、受け継ぐべきである。「慰めの共同体・教会」は、ご復活の主キリストから託された「鍵の権能」を行使する使命に生きる。「罪の赦し」を告げる権能(戒規)を授かっている長老会が問われる。一人一人の魂と向き合い「慰めの対話」をする。そのために長老会は主の弟子としての訓練を受けなければならない。長老会の使命には、「牧会・魂への配慮」「受洗志願者への試問」「教育・戒規と結びついた教会生活の訓練」「洗礼・聖餐を土台とした慰めの教会の形成」がある。このような長老会の訓練は、一つの教会を越えた地域の複数の教会でなされる。晩年、加藤先生は、ボーレンの『説教学』の訳者である以上に、トゥルンアイゼンの『牧会学』の訳者であることを強調された。日本の教会が「慰めの教会」になり損なっていることに痛みを覚えられた。「慰めの教会」は主の憐れみと悔い改めに生きる「罪人の教会」である。罪を犯した者をいかに主の憐れみに触れさせ、悔い改めへと導き、教会の交わりに生きる者とするかが課題となる。そのためにも、説教と聖餐を通し、キリストのいのちに触れ、しなやかな足腰に生きる教会となることが求められる。一つ一つの講演、言葉から、日本伝道と教会形成に苦悩する私たちへ、著者の声援の祈りと問いかけが聴こえて来る。
















