中年期を描く滋味深いエッセイとその課題を祈る三十数編の祈り
〈評者〉友納靖史
「中年期、喪失の始まりです。今までの器が砕かれます。しかし……」
本書を読み終え浮かんだのは、井戸の〝誘い水〟でした。数は少なくなりましたが、市街地でも災害時は重宝される井戸。汲み上げるポンプはしばらく使わないと水が出ませんが、水を差し、押し続けると地下水が勢いよく昇って来て溢れ出ます。本書の目次で興味の湧くタイトルを読みだした時、私の内面、いや魂の奥底に埋もれていた、何かが湧き溢れ出す感覚を覚えました。エマオ途上で主イエスに出会ったあの弟子達のような熱い感覚に……。言葉にできなかった、いや、することを躊躇していた祈りと御言葉に触れ、神が備えられた「霊性の井戸」から尽きない命の水を汲み出す〝誘い水〟を得た感覚を感じたのです。
筆者と同い年の私が、老いの始まりを最初に自覚したのは、潤いを失くした手でレジ袋が広げられず苛立った時でした。当たり前が当り前でなくなる喪失感。こんなことまで祈って良かったのか……と、著者の豊かな経験と信仰から溢れ出る御言葉に基づく祈りにハッとさせられました。著者自身が四十一歳の時、「死の陰の谷」を通る苦悩に遭遇され、詩編の詩人に与えられた「神が共におられる」との唯一の装備品を身に着け、紡ぎ出された祈りの言葉。ページをめくる度に私の魂にも潤いと平安が注がれました。
本書の祈りのタイトルを列挙すると、「気分が乗らない一日の始まりに」「約束を忘れる」「人身事故で電車が遅れる」「職場に愛想が尽きて」「同期が自分より評価される」「介護が辛い」「巣立つ子どもを見送りながら」「物を捨てる/整理する」等……。
その中でも、「猫/犬が死ぬ」は、教会が長年目を背けて来た、ペットの死を悼む人々へのグリーフケアとして、実に大胆かつ牧会的視点から恐れず関わる大切さに励まされます。「親が死ぬ」は二つの異なる祈り方があります。愛されて育った子としての感謝の祈りと、親から振り回された人生を言語化し、苦悩から解放された平安の祈り。これらは、中年期に対峙する人生ドラマを網羅した深い配慮に満ちています。何よりも、それらの祈りが、模範的信仰の帰結で終わらず、魂の叫びをありのまま神に委ね(重荷を神へ転がし)ていること。これこそが主が望まれる私たちの真の祈りではないかと……。
蛇口から水道水が当り前のように出てくる生活が失われた時、井戸水を汲み出す必要に迫られます。しかし正にこの時こそ、自らの魂や感覚に頼らず、神が与えられた霊(「神を神として認識する能力」)によって神の力を引き出す、心と魂に潤いを取り戻す〝誘い水〟こそ、祈りだと再認識させられました。新鮮なこれらの祈りに触れ、「アーメン」と唱える度、求道中のこの方へ、今は教会を離れているあの方へ、人生の課題に苦悩している友らへと、本書を手渡したい方々の顔が走馬灯のように浮かんで来ました。これもきっと、宣教への情熱が枯れかけていた私の内なる霊に聖霊が働きかけられたからに違いありません。
冒頭に引用した言葉「しかし……」の先は失望でなく、これまでとは異なる出会いへの期待感も静かに湧き出します。古き器は砕かれても、それらを入れる新たな器が主に備えられることを期待する一冊となりました。














