「すむ」ことのできない現代社会の苦しみに寄り添う名著
〈評者〉石井砂母亜
「すむ」というやまと言葉は、多様な意味連関を含みこむ用語である。「すむ」とは、曇りなく透明に「澄」み、濁りが澄み分けられるように、人間の抱える問題が「済」み、安んじて「住む」ことである。だからこそ、「すむ」ことは今も昔もむずかしい。ウサギ狩りに興じる人間がそうであるように、われわれは家にじっとしていられず、欲望の対象と欲望の原因を取り違えながら欲しくもないものを追い求め虚しく空転する(パスカル『パンセ』断章一三九)。われわれは根無し草のように浮遊し、苦悩のうちにもがくのである。
本書は、長らく異端として歴史の波間におかれたマイスター・エックハルトの『教導講話』と「ドイツ語説教一〇一」を阿部善彦氏が訳出したものである。七〇〇年以上も前の古典であるが、現代人が抱える「すむ」ことのできぬ苦しみに丁寧に寄り添い、「すむ」ための方途を教えてくれる。
『教導講話』の冒頭で、エックハルトは一切を手放す従順を若き修道者に勧めているが、この従順は濁りが澄み分けられた透明さであろう。透明であればあるほどそこに全体が映されるように、「一切のことから離れ去っていけばいくほど、……神が御自分の一切を携えて内奥へと入ってきてくださるのである」(二六頁)。「すむ」は真の充足となる。
他方、エックハルトは事あるごとに「欺かれないように注意しなさい」と繰り返している。というのも、この透明さは「諸々の事柄から逃れて、外見上に現れるものから離れて、自分を無人寂寥の地に引きこもらせ」(四〇頁)ることではないからである。「荒れ地で独りになることよりも、集団の中で独りになること」(一一一頁)に困難さを見るエックハルトは、「どこにあろうとも、だれとともにあろうとも、自分の内奥に無人寂寥の地を持つ」(四〇頁)ように勧告する。「すむ」とは、「自分の内奥に無人寂寥の地」を持つことであり、そのために一切を手放し、それゆえに一切に照らされてこの地において生きることである。そのような生には困難が伴うが、エックハルトはそのことを否定しない。むしろ克服できない弱さや罪の自覚のうちに、手放すための真の修練を見るのである(第二部第九章)。
若き修道士との問答である『教導講和』の主題は、初の邦訳である「ドイツ語説教一〇一」によって補完され、一切の放棄による神の生命への参与が神の受肉において可能となると言われる。それは「神化(テオーシス)」の伝統を汲むものであり、エックハルトはそれゆえのちに異端として断罪される。
しかし、一切を手放す従順が「人間が神となる」その内実であるならば、訳者がイヴ・コンガールの言葉を最後に引いたように、神化の問題はわれわれが「どこに住み、いかなる生の領域から語り、いかなる言語で語っているか」という問いと切り離すことができなくなる。コンガールと同じく「わたしは聖書と教父たちと諸公会議の教会に住んでいる」(二七〇頁)と宣言するのであれば、その「すむ」は無一物として神の受肉を受けることであり、そこに神化の問題が横たわっている。
本書は、神の受肉と神化という神学の根幹に関わる問題に一石を投じるものであり、かつ「すむ」ことのできない現代社会の苦しみに寄り添うものである。訳者による優れた解説とともに今後読み継がれるべき名著である。














