レント、それは神を求め、自分と出会うとき
〈評者〉古本みさ
今年もレントの季節がやってくる。学校現場で働いていると、アドベントと同様、レントもまた世間的に忙しい時期と重なりがちだ。気がつけば「心を神に向ける(悔い改め)」という本来の過ごし方から、少し距離ができてしまっている自分に気づく。四十日間、大好きなチョコレートを我慢すること。所属する教団が毎年配布する「大斎克己献金」の封筒を、書斎の壁に掛け、思い出したときに小銭を入れること。それくらいが、ここ数年の私のレントだった。そもそも、「心を神に向ける」とは、どういうことなのだろうか。本書は、その本質的な問いへ、読者を静かに、そして力強く導いてくれる一冊である。
著者ポーラ・グッダーは、現代の英国聖公会を代表する聖書学者の一人だ。彼女は、聖書の物語がもつ力を大切にしながら、読者が物語の中に身を置き、登場人物と共に歩むような黙想のあり方を提唱してきた。本書にも、その特徴が息づいている。舞台は、聖書において「危険」と「救い」が隣り合わせに描かれる場所──荒れ野である。
グッダーは、レントを単なる我慢や自己抑制の期間としてではなく、私たちが自分自身を知り、神の呼びかけに耳を澄ますための、「アイデンティティと召命」の旅路として描き出す。特に印象的なのは、弟子とは「学ぶ者」である、という一貫した視点だ。マルコ福音書に描かれる弟子たちが、何度もつまずき、失敗しながらもイエスに従い続けたように、弟子であることの本質は、完成された信仰や霊性にあるのではない。むしろ、イエスと共に過ごし、イエスが見ておられる世界を共に見ようとする、その歩みの過程そのものにあるのだと気づかされる。
序章で引用される「船は港にあれば安全だが、そのために船は作られたのではない」という言葉は、本書全体の姿勢を象徴している。私たちは、安全な場所に留まるためだけに召されたのではない。荒れ野という不安と孤独を覚える場所へ足を踏み出すとき、私たちは初めて「本当の自分」と出会う。レントの問いとは、「何をするか」ではなく、「このレントを通して、あなたは何者へと形づくられていくのか」という、より深い問いなのである。
本書は、日曜日を除くレントの各日に一つずつの黙想が用意されているが、著者自身はそれを「答えを与えるためのもの」ではなく、読者と共に歩く「同伴者」でありたいと述べている。イエスは、荒れ野の厳しさや孤独を知りながら、そこを歩む道を選ばれた。その選択こそが宣教の原点であり、私たちが従おうとする師の姿である。本書は、レントの終わりに、私たちがその重みを引き受けつつも、「私を遣わしてください」と喜びをもって応答できる者へと、静かに背中を押してくれる。
訳者である中原康貴司祭は、私の青年時代からの友人であり、同労者でもある。彼が本書を、これほど心に沁みる日本語にしてくれたことに、あらためて感謝したい。訳者あとがきに記されているとおり、本書が、彼自身をキリストの弟子としての新たな歩みへと促したことは間違いないだろう。私自身もまた、この一冊によって、今年のレントを迎えることが少し楽しみになった。キリストの弟子として歩もうとしているすべての人に、そしてとりわけ、これから聖職の道を志す人々に勧めたい一冊である。














