はじめて通して読めるQ文書
〈評者〉大貫 隆
Q文書とはマタイとルカ福音書が共通して資料(ドイツ語・Quelle)としているイエスの言葉集のことである。では具体的に、どのイエスの言葉がそこに含まれ、どのようなつながりだったのか、マタイとルカのどちらが元来の文言をよりよく保存しているのか。これらの問いをめぐって一九世紀以来国際的に蓄積されてきた専門研究の量は凄まじく、ここで要約できるようなものではない。しかし一般の読者としては、そうであればこそ逆に、是非一度そのQ資料の全体にお目にかかり、初めから終わりまで通して読んでみたい、と思うのが当然であろう。ところが不思議なことに、それがこれまで簡単には叶わなかったのである。というのも、Q資料全体の本文を信頼に足るかたちで復元し、容易に通読できるようにしたものが存在しなかったからである。
漸く一九九〇年代にそのような本文を復元しようという国際的プロジェクトが立ち上がった。その成果が二〇〇〇年に公刊された「Q批評版」(The Critical Edition of Q, Leuven- Minneapolis)である。そこでは再構成されたギリシア語本文と並べて英、独、仏語訳も同時に読み比べられるようなっている。本書は言わばその日本語版に当たるが単純な翻訳ではない。というのは、著者の山田氏は「Q批評版」を踏まえて、すでに二〇一八年に『Q文書 訳文とテキスト・注解・修辞学的研究』(教文館)という浩瀚な専門書(著者曰く「卓上版」)を公にしているからである。すでにその卓上版が細部で独自の工夫を凝らしていたが、今回の「携帯版」もその点は変わらない。特に中心部(二二-一二〇頁)は合計五四のイエスの言葉のギリシア語本文と日本語訳を左右の頁に見開きで提示している。その際、全語録に通し番号が付され、さらに個々の語録はa,b,c…の下位分肢に区分されている。Q文書全体が意図している内容的な配列は、ブロック分けと中見出しで表示される。いずれも文書全体の通読に非常に役立っている。
さらに、中心部に先立って「Q文書の文学的・社会学的・神学的特徴」、中心部に続いて「Q文書の研究史」と「イエス研究史」がおかれている。いずれもきわめて複雑な事情を簡にして要を得たかたちで解説している。読者は中心部で提示されたQ文書全体を一度読み通したならば、これらの解説を読み、そこに要約されている問題史に照らしながら、今度は自分自身でQ文書の本文そのものを分析する能動的な読解を試みることができる。
能動的な読解は文書全体についてのみならず、個々の語録についても容易に可能である。例えば、「死体があるところには、はげ鷹が集まってくるであろう」が、本書の語録Q52では、はるか手前のルカ一七24(人の子の来臨についての言葉)の直後に置き直されている。つまり、Q文書ではルカ一七24+37でワンセットだったということである。
事実、マタイの並行箇所二四27︱28ではそうなっている。マタイがその直前(二四24)で言っていることと照らし合わせると、「はげ鷹」は「偽預言者」、「死体」は偽預言者に惑わされる人間たちのことである。マタイは明らかに「はげ鷹」をマイナスに評価している。なるほどそう言われてみれば、マタイは山上の垂訓の一節「空の鳥をよく見なさい」(六26)でも、もともとQ文書(本書では語録Q26)が「カラス」と言っていたところを、わざわざ「鳥」に書き直しているではないか。おそらくマタイは旧約聖書のレビ記一一14︱15の汚れた鳥類のリストを念頭において、イエスが汚れた「カラス」を優しく受け入れている逆説を均らそうと、価値中立的な「鳥」に書き変えたのである。ましてや「はげ鷹」は同じリストで筆頭に上げられている猛禽である。そう見れば、マタイが二四27︱28で「はげ鷹」をマイナスに評価するのも、さもありなんと納得がゆく。
対照的にルカは、「はげ鷹」の言葉を「人の子の来臨」についての言葉(一七24)から分割して一七37に置き直したが、どこであろうと死体に集まってくる「はげ鷹」の超能力をプラスに評価している。人の子の来臨も同様に世界中どこからでも見える出来事なのだから、ここだ、あそこだ、と探し回るな、というわけである。肝心なのは、「人の子」の来臨までまだまだ続いてゆくはずの「日々」に、どう対処するかである。ルカはそのことを教えるイエスの言葉を集めて一つの講話に仕上げた後、はげ鷹の言葉を一七24から引き離して一七37へ移し、講話全体の結びにしたのである。なるほどそう言われてみれば、ルカ福音書は随所で「日々」という文言を繰り返すことが思い起こされるではないか。典型的なのは「主の祈り」の「私たちに必要なパンを日々お与えください」(一一3)の一節である。これもまたQ文書から採られたものである。そこでは元来「今日お与えください」(本書の語録Q18)とあったのをルカが「日々」と書き変えたのである。
二つの事例がそろって教えてくれるのは、マタイとルカがQ文書の個々の語録へ加えた微細な変更が、それぞれの福音書全体の特徴と不可分一体だということである。細部は集まって全体を構成し、全体は細部に現れる。これこそ解釈学的循環に他ならない。本書の刊行によって、福音書を読む醍醐味は専門家の独占物ではなくなり、すべての能動的な読者に向かって開かれることになった。まさに画期的である。ちなみに、本書のギリシア語本文は初級あるいは中級講読のテキストとしても最適である。
大貫隆
おおぬき・たかし=東京大学名誉教授、新約聖書学