“あらすじ”は、先に読むか、それとも後で……
〈評者〉上林順一郎
ある日曜日、教会員から「週報にその日の説教の“あらすじ”を載せてほしい」と、要望されました。「説教は全体で説教です。“あらすじ”は説教ではありません」と断りました。しかし「説教の前に“あらすじ”を読み、その上で説教をしっかりと理解したい」と言われ、また別の人からも「説教を聞いた後で“あらすじ”を読んで、その日の説教の内容をもう一度受けとめたい」と言われました。翌週から「説教要旨」を週報に掲載することにしました。心の中で「説教は生ものだ!」と、つぶやきつつ……。
このたび『あらすじで読むキリスト教文学──芥川龍之介から遠藤周作まで』が出版されました。これは月刊誌『信徒の友』の2011〜2012年の二年間にわたって連載されたものの書籍化ですが、あらためて「キリスト教文学とは?」との課題を視点に置きつつ編纂されています。監修者である柴崎聰さんは巻頭で「キリスト教文学とは何か」について、次のような「ゆるやかな定義」を示しています。
「キリスト教文学」とは、「作者がキリスト教徒でない作家・詩人であったとしても、その文学的発想や営為の根拠に、キリスト教や聖書があり、そこからのメッセージと融和し、あるいは格闘しながらも、それに捕らえられ促されて表出する魂の文学である」とし、その「魂の文学」に触れるための入り口として“あらすじ”を味わい、そこから作品の深みへと進んでいくことを期待しています。
「ある秋の夜半の南京の〈売笑婦〉(売春婦)少女金花の部屋。彼女は貧しい家計を助ける為に夜々部屋に客を迎えていた。……金花の部屋に今年の春、若い日本人旅行家が訪問した。……話題は壁の十字架に向かう。彼は、覚束ない支那語で『お前は耶蘇教徒かい』と金花に問う。『ええ、五つの時に洗礼を受けました』。会話は続く。『そうしてこんな商売をしているのかい』『この商売をしなければ、阿父様も私も餓え死をしてしまいますから』『しかしだね、─しかしこんな稼業をしていたのでは、天国に行かれないと思やしないか』。十字架を眺めながら金花は、『いいえ』と答え、『天国にいらっしゃる基督様は、きっと私の心もちを汲みとって下さると思いますから』と答える。それを聞いた日本人旅行家は反応に窮するのであった」(62〜63ページ 芥川龍之介『南京の基督』、あらすじ執筆・宮坂 覺)。
“あらすじ”は漢字で「粗筋」とか「荒筋」と書き、「大雑把な筋書き」のことですが、英語では“synopsis”で、ギリシャ語のsyn(一緒に)とoptis(見る)の合成語が語源とされています。直訳すれば「共観」とか「共感」になるでしょう。“あらすじ”は原著への「共観」や「共感」を呼び起こすものなのです。
さて、本書の『南京の基督』の“あらすじ”を読み、急いで原著を読みました。読み終えてから本書の「作者略歴」、「背景と解説」、そしてもう一度“あらすじ”を読みました。気付かされたのは、この“三位一体的な構成”により芥川龍之介の「魂の文学」への「共観」と「共感」へと導かれたことでした。“あらすじ”は読書の前と後で、二度オイシイ! さて、説教の“あらすじ”は……。
次は、『あらすじで読む“現代”キリスト教文学』の出版を待っています。
上林順一郎
かんばやし・じゅんいちろう=日本基督教団教師