イエス像を遠藤文学から聞く
〈評者〉城前和徳
田矢廣司氏は、一九六八年一二月(二〇歳)に恵泉バプテスト教会(日本バプテスト連盟)にて、信仰告白・バプテスマを受けて後、聖書を通して自らの生き方を、主イエス・キリストにあって生きることを自らの人生で問い続けて来られた方です。
本書は、田矢氏が主イエスに出会い、主イエス・キリストに在って生きる人生を問う只中にあって、遠藤周作文学と出会い、チャレンジとして遠藤周作の語る神学について考察したものです。
著者は本書のタイトルを「遠藤周作が森田ミツに語らせた神学」と記していますように、遠藤文学から神学を聞いていくユニークな試みを取っています。森田ミツと言えば『私が・棄てた・女』が浮かびますが、著者は他の4つの小説にも登場することに注目し、異なる5人の森田ミツ像から遠藤周作のイエス像を導き出そうとしています。言葉を変えて言えば、遠藤周作という一人のキリスト者作家の文学を通して、「神の沈黙で苦しみ続ける苦悩」を自分の歩みの中で課題として取り上げている田矢氏の信仰の在り方への問いかけであるように思わされます。
私は、田矢氏がこの本で訴えています内容を読ませていただく中にあって、改めて聖書から聞くということはどういうことかを知らされます。
遠藤周作が森田ミツという女性を介して、イエス理解を語っている「イエス像」のテーマを著者は序で「もし…」という言い方で表しています。
森田ミツという女性との出会いにおいて、罪と気づき、イエスの顔、他人の罪をも自らに取り込む良心の気づき、醜い部分の気づきを示す描写になっています。まさに、「ミツは他者の罪を背負う」、「罪の気づきと良心の覚醒」をテーマにしつつ、これらの課題を「十字架の神学」へと展開しています。さらに、森田ミツに出会った男たちを通して「主を見捨て逃げた使徒たち」に考察を進め、純朴な娘森田ミツが遭遇する不幸に注目し「なぜ神は悪を許しているのか」というテーマにも挑戦をしています。
著者は、信徒として何度か主日礼拝での説教奉仕をすることがあったようで、説教原稿を作成する時に、遠藤周作のイエス像を思い越したと語っています。そこで田矢氏は、付録として説教を掲載しています。これらの説教からも著者の追い続けてきたテーマを見ることが出来ます。
田矢氏はあとがきで「文学者でもなく、神学者・牧師でもない一平信徒が文学に触れ、神学に触れながら考えてきた乏しい軌跡を知っていただければ」と語っておられます。
私は、イエス像(十字架の神学)を、遠藤周作文学か聞き取っていく試みとして考察された田矢氏の一人のキリスト者としての「主イエス・キリストへのこだわり」の歩みの姿勢を感じ取ることが出来ました。
この本を手に取って読まれた一人ひとりが、多くの出会いの中で、主イエス・キリストに出会うことを期待しています。また、神の言葉とされています聖書(聖書は信仰を与えられたその時代時代を背景にした人々の手によって書かれたことを前提として理解したうえで)を自らの目で、心で読まれることをお勧めいたします。













