教父を通じてキリストに出会う
〈評者〉袴田 玲
本書は、日本キリスト教団出版局より刊行された宮本久雄著作選集(全3巻)の第2巻にあたる。著者・宮本久雄については、今更詳述する必要もないだろう。本書は著者の聖書解釈やパウロ論が示される第1巻につづき、ニュッサのグレゴリオス、擬ディオニュシオス、アウグスティヌス、トマス・アクィナス、マイスター・エックハルトら東西教父らの思索に基づきつつ、神の「脱在」を中心として著者自らが新たな存在論(エヒイェロギア)を構築する書となっている。
……と、このように紹介すると、「何やらすごい著者による何やら難しい書物」という印象をもたれる方もいるかもしれない。確かに、本書で扱われる教父のテクストの幅広さや深さは否定しようもないが、本書の(そしてその人生の)全体を通じて著者がしようとしていることは極めて単純明快である。それは、著者自身の言葉を借りるならば、「神の御子、受肉した御言イエス・キリストとの出会いを求めた旅」(本書「あとがき」より)である。
その長く豊かな旅路において、筆者が視点を定めてそらさない一点があるとすれば、それは人間の受動性であり、またその受動性ゆえにこそ、他者に、そして神に、披かれゆくという人間の可能性であろう。この受動性へのまなざしが、ギリシア教父の思索や東方キリスト教の修道思想の中心にある人間の身体性(あるいは、「精神と身体の合一的一体」たる霊的感覚)に対する洞察となり(第1、2章)、また一方ではニュッサのグレゴリオス、アウグスティヌス、マイスター・エックハルトにおける、人間存在そのものの受動性(瞬時的貸与性)や神体験の受動性(自己中心性からの解放)、さらには協働態性への着目となって(第3、4、6、8、9章)、読者を教父たちの思索の奥へ奥へと誘う。難解で知られる擬ディオニュシオスの否定表現に取り組む第5章においても、「否定詞を用いる人がすでにその使用において全体〔すなわち神〕と何らかの仕方で出会っているという事実」(傍点と〔 〕内の補いは引用者による。以下も同様)に基づき、「自己が見出したと思った真理をさらに問い直しうる」という人間の自由としてそれは理解される。
中でも特筆すべきは、トマス・アクィナスのグラチア(恵み)論を扱う第8章であろう。若かりし頃、筆者は押田成人神父の導きによって「存在する一切の一つ一つのかけがえのなさを観想しているトマスの境涯を知った」(「あとがき」)という。その筆者が、「出会い」「出くわし」等々の言葉を用いつつ強調してやまないのは、古代ギリシア哲学から近代の人間観に至るまでかくも重視された意志的・理性的主我性(自己決定する人間の能力や意識)が撃たれ 、動揺し 、破れるその一点にこそ、グラチアの、すなわち神の、強力な働きが経験されるという事態である。「他人を赦す」という、理屈で考えれば不可能でしかない行為が可能となるのも、そのようにして「グラチアの場」たりえた人間に到来する出来事として理解される。ここには、有限で、ちっぽけで、思いのままにならない「この私」を生きるすべての人を、「神との出会いの場」として包み込む愛のまなざしが存在する。こんなに温かく希望のあるトマス論を、私は知らない。
宮本が捉えるこのトマスの愛のまなざしは、私にとっての恩師である筆者・宮本自身のまなざしに重なる。大学の授業で、学生たちのどんなに無知で愚かな質問にも、丁寧に、温かく、ときにジョークを交えつつ、身近な例をもって説明することを厭わない教師としての姿。研究会で、一緒に教父のテクストにかじりつきながら、テクストが示す神秘への披かれに、鳥肌の立つような感動を共有した研究者としての姿。旅と、美味しいお酒と食べ物を愛し、人の弱さにとことん付き合ってくれる人生の先輩としての姿。今振り返ってみると、そのどの場面にも、愛が、すなわち神が、臨在していたように思う。本書を手にする読者の銘々が、宮本の思索を通じて教父たちに出会い、さらに彼らが出会ったイエス・キリストに出会われることを祈る。













