実に行き届いた配慮に満ちた入門書!
〈評者〉安井 聖
副題を「教父思想入門」とする本書は、教父たちの思想を学ぶ楽しさ・喜びの中へ、馴染みのない読者を導き入れようと心を尽くしている、とても良い入門書である。目の前にいる読者に語りかけるような言葉遣いで、教父たちの置かれていた複雑な状況と、その中で紡ぎ出された彼らの言葉の持つ意義とを、わかりやすく丁寧に説き明かしている。教父研究、特にアタナシオス研究の日本における第一人者として数々の実績を積み重ねてきた著者は、同時にプロテスタント教会の牧師として長く働いてきた。教父思想に込められている神の恵みを、噛んで含めるようにして語り聴かせようとする牧師らしい姿が、本書全体に投影されている。
評者は神学校や大学で古代の教父思想を紹介する講義を行なっているが、その講義の中で初学の受講者たちに伝えたいと考えている内容のほとんどが、本書には網羅されている。受講者たちに、ぜひ本書を手に取って読むように勧めたいと思った。また「あとがきと参考文献」の箇所では、本書を読了後、さらに教父思想を学び進めたいと願う読者のために、膨大な教父の著作や専門書を読み解く手がかりとなる重要な参考文献を、それぞれの文献に関する簡単な解説と共に紹介している。教父思想の世界の入り口に立った者たちを、さらにその中へと招き入れようとする、実に行き届いた配慮をしている。
他方で本書は、教父思想に関するかなり踏み込んだ内容をも取り上げている。その中でも特に神化論に関する考察(第11、12章)は、評者にとって読みごたえがあり、新しい気づきを得ることができた。「神化」という言葉は、日本の多くのキリスト者にとって馴染みがない。著者が繰り返し述べているように、教父たちが言う神化とは、人間が神のようになる、神と等しくなる、という意味ではなくて、神の御子の不死・不朽の本質に人間が参与することによって、アダムの堕落以来失われた原初の不死性・不朽性が回復されることを意味する。著者は、アタナシオスとプロティノス(新プラトン主義の開祖)の神化論を比較して論じている。プラトン主義的二元論を前提としたプロティノスの神化理解は、結果的に悪からの逃避に向かう。これに対して二元論を徹底して退けたアタナシオスの神化理解では、罪と悪との対決を回避しない。人間は人間に留まり続けながら、同時に受肉した御子キリストの神性と一つにされることによって、不死・不朽を神からいただく。この神化の恵みを支えとするからこそ、人間は罪と悪と戦う歩みへと至る。そのように理解された神化は、「礼拝とサクラメントにおいて、可視的な共同体、教会の現実になる」(165頁)と著者は語り、神化論と教会論との関係を示唆しているが、評者はこれに大いに刺激を受けた。神化論と教会論との関係について、アタナシオスをはじめ教父たちがどのように考えていたかを、評者も考察してみたいと思わされた。
「教父を学んでいて面白いなと感じる時は、たいてい、教父たちが福音の真理を自分自身の思想や文化の中で理解し、解釈し、土着化させていった試行錯誤の経過が分かる時です」(7頁)。福音の伝道者である著者にとって、自分と同じ伝道者の先達が実践の中で紡ぎ出した教会を導く知恵の言葉、それが教父思想なのである。
安井聖
やすい・きよし=日本ホーリネス教団西落合教会牧師、東京聖書学院准教授