“主イエスと出会う”説教集
〈評者〉吉田 隆
二〇二〇年の年明けに始まったコロナ渦以来、日本の教会は、依然大きな混乱と停滞(あるいは後退)を余儀なくされているように思われます。それに追い討ちを駆けるように、旧統一教会問題が浮上しました。・宗教は危険だ・というオウム真理教事件以来の刷り込みがさらに強化されるかのように。
本書の著者は、この問題を政治と宗教の問題として論じることもさることながら、何よりも教会の宣教の課題として考えるべきではないかと「あとがき」で論じておられます。「つまり、イエス・キリストを唯一の救い主として宣教する教会の姿勢の弱さや不徹底ぶりが、こうした偽メシアをわたしたちの社会にはびこらせる要因の一つとなってはいないかということです。」「偽物を退けることは、本物によってしかできません。それは神のひとり子イエス・キリストを真の救い主としてさし示すこと以外ではあり得ません」(二九七、二九八頁)と。そして、この教会の責任の自覚と福音宣教への情熱こそが、本書を貫く・心・なのです。
紹介の順序が逆になりましたが、著者の久野先生は、日本キリスト教会の大会議長を務められた方ですが、何よりも牧師として九州・四国・北海道と大小いくつもの教会を牧され、八〇を超えた今でも様々な形で教会の宣教の現場に関わっておられる生涯一牧師、生涯一伝道者であられる方です。とりわけ本書は、コロナ渦の二年間、教会に来ることのできない欠席者や高齢者に届けられた「説教梗概」が元になっており、短い文章(聖書本文を除いて二頁)の中に円熟した説教者の手腕が遺憾なく発揮されています。
著者の伝道への熱意は、本書の静かで落ち着いた文章を通してでも、十分伝わってきます。出版される説教集は、多くの場合、説教者の独自な神学や主張の展開、その人の人格が現れるものですが、本書は説教者が前面に出てきません。ひたすらに聖書本文そのものを信頼し、どこまでも主イエスと聴衆・読者を出会わせることに傾注したものになっています。
マルコによる福音書は最初の福音書であるが故の講解の難しさがあって説教集も多くはありませんから、本書は多くの説教者にとっての助けとなることでしょう。しかしそれ以上に大切なことは、「神の子イエス・キリストの福音の初め」として福音書を確立したマルコ自身が、その書を通して今も生けるイエスという方に出会ってほしいと願ったに相違ないということです。したがって、その願いに共鳴する本書もまた、堅実でありつつ決して平板にはなってはいない。それが本書の真価です。
コロナ渦が日本の教会にもたらした深刻な問題の一つは、対面(in person)でこそ意味のある礼拝や交わりの喪失です。このような現状から教会が回復するためには、何よりも生ける主イエスに立ち返り、その人格的な交わりを回復すること。そうして、主イエスの福音に生きる生活を取り戻すこと以外にはないのではないでしょうか。その意味で・イエスに出会う・ための福音書に学びつつ、再びそこから歩み出したいと願うのです。
吉田隆
よしだ・たかし=神戸改革派神学校校長