死は人間にとって厳粛な究極の事態である。それゆえ容易には語れない。E・ユンゲルは次のように言う。「人は死をそれ自体から知ることはできない。死は沈黙している…。もし死について語ることができるとするならば、それに関する言葉はそれを越えたところから来なくてはならない」(『死・その謎と秘義』新教出版社、絶版)。死を越えたところからくる声とは、キリスト教的に言えば「復活」の声だろう。そこを丁寧に考えてみたい。
トルストイ『イワン・イリッチの死』
『イワン・イリッチの死』の荒筋はこうである。ロシアの一地方判事が、不治の病にかかり肉体的にも精神的にもひどく苦しみ、死の恐怖と孤独に直面する。家族も心配し看護するが、本人の苦しみにはとおく届かない。死のその当人にとっての切迫性である。こうしたことごとが、さすが文豪、実にリアルに描かれる。しかし、やがて意外なかたちで死が訪れる。
「馴染みになっている死の恐怖をさがしたが、見つからなかった。……なぜなら、死がなかったからである。死の代わりに光があった。……これらはすべて彼にとって、ほんの一瞬の出来事であったが、……しかし、そばにいる人にとっては、彼の臨終の苦悶はなお二時間つづいた。……「いよいよお終いだ!」誰かが頭の上で言った。彼はこの言葉を聞いて、それを心の中で繰り返した。『もう死はおしまいだ』と彼は自分で自分に言い聞かした。『もう死はなくなったのだ。』彼は息を吸い込んだが、それも中途で消えて、ぐっと身を伸ばしたかと思うと、そのまま死んでしまった」(102頁)。
イワン・イリッチに確かに死が訪れたのだ。しかし「死はなかった」という。どういうことなのだろうか。
ハイデガー『存在と時間』
ハイデガーは、人間を「死に臨む存在」と把える。『存在と時間』の第一部第二篇の一~二章で集中して死の分析がなされ、先の『イワン・イリッチの死』にもふれられているが、彼は死を次のように定義する。
「現存在〔人間のこと―引用者〕の終わりとしての死は、現存在の最も固有な、他と何の繋がりもない、確実な、それでいて不確定な、追い越すことのできない可能性である」(386頁)。
こういうことである。死とは、人間にとって最も固有なものであり、その死を人は一人で体験せねばならず、かつ避けることは決してできない、そしてそのようなものとして死はいつやって来るのかわからず、その上、誰もが生きている限り前もっては体験しえない、というのである。ここには死のもつ切迫性がにじみ出ている。その上でハイデガーは、そういう死を、人はともすると隠蔽しようとするが、しかしそうであってはならず、自分の死の可能性を了解し覚悟して生きる、つまり「死への先駆的決意」を持って生きるべきだと語る。
しかし実はこの『存在と時間』は中断し未完におわる。その間、彼はナチスに入党、挫折。ここは慎重な物言いが必要だが、人間のもつ決意性の性格が関わっているのであろうか。今日議論されているところである。
だが彼はその後、死後公刊されたのだが、第二の主著『哲学への寄与』を書き綴っていた。その中に不思議な言葉が出てくる。「最後の神の目配(めくば)せ」。最後というのはたんに時間的なことでなく究極の、ということだが、死の問題を人の決意性に集約させたハイデガーが、ここにきて最後の神に言及するのである。この神とは何者か、そして目配せとはどういうことだろうか。
ルター「死への準備についての説教」(『ルター著作選集』所収)
さて、この「説教」には三つのポイントがある。第一、「死はこの世からの別れである」。これはハッキリしている。ルターは実際的なことを書く。財産問題は整理しておく事、喧嘩している人とは仲直りしておく事。そして第二、「こうして地上のあらゆる人々に別れを告げたあとは、ただ神のみを目あてとしなければならない」(51頁)。なぜなら「死の道は神へと通じている」からである。結局、これがすべてとも言えよう。死の道は神へと通じる。それゆえ「私たちも死に臨んだときに、不幸を払いのけて、死後になお大きな世界と喜びとが存在することを知っていなければならない」(52頁)。つまり「死を〔神の〕生命において、罪を〔神の〕恩恵において、陰府を〔神の〕天において見るようにする」(57頁)。そして第三、結論「喜んで死の前に出ることができる」(69頁)。ルターは、喜んで死ぬ、死とはそういうものだ、と言うのである。
何かいきなり、きっぱりと極端な結論がでてきた。喜んで死ぬ。なぜか。もう一度、考えてみよう。ルターの神学はよく「十字架の神学」と言われる。つまり、キリストの死の神学である。「十字架の神学」と言うとき要諦が二つある。一つは十字架とは、キリストが背負った十字架を意味すると共に、そこで同時にキリスト者が背負うべき十字架も考えねばならぬということ。そして第二に、十字架は同時に「復活」とメダルの裏表の関係にあるということである。すなわち「十字架の神学」は「十字架と復活の神学」ということになる。
しかし問題は復活とは何か、である。そこがハッキリしていないと復活もキリスト教の空疎な決まり文句として心に響かない。ハッキリさせよう。復活とはドラキュラ伯爵のように棺桶から死人が生き返ったというようなことでも、またある人の心の中で死者がリアルなイメージとしてありあり浮かび心の内で語りかけてきた、というような事でもない。そうではない。では、どういうことか。ルターは私たち人間は、生きる(そして死ぬ)この現実を二重に生きると語る。二重に生きるとは、ルターの用語で言えば「人の前」で生きる、かつ「神の前」でも生きるのである。そして死んで復活するとは「人の前」を去って(つまりこの世と別れ)、「神の前」に全面的に入りゆくことなのである。別様に表現すれば、神という出来事に全面的に包まれゆくことなのだ。これが死であり復活である。
つまり死とは、死んで復活することである。ルターはこのことを「死の死」と表現した(「ロマ書講義〔WA・51, 332〕」、「ガラテヤ大講解〔WA・40/1, 440〕」)。「死の死」、これがルターの死についての結論である。それゆえルターは喜んで死ぬと語る。死はあえて言えば、自然なことであり悲しむことはないとも言えよう。しかし、そうであっても13才の娘を亡くした時、ルターは嘆き悲しみこう語った。「愛するレニッヘンよ、お前はよみがえって、星や太陽のように輝くだろう。お前は安らかにしているし、万事申し分はない、ということを知っていながら、しかも実に悲しいなんてなんと不思議なことだろう」(「卓上語録」)。私たち人間にとっての死のこの不思議は、神の「秘義」となるのである。
さて、トルストイは「死はなかった」と語り、ハイデガーは「最後の神の目配せ」と言う。そこをルターは「死の死」と表現したのではなかろうか。そしてパウロは、こう歌ったのではなかろうか。「死は勝利にのみ込まれた。死よ、お前の勝利はどこにあるのか。死よ、お前のとげはどこにあるのか。」(第二コリント15章54~55節)。
江口再起
えぐち・さいき=ルター研究所所長