神共にいますを力強く感じる共鳴と共感
〈評者〉岸本大樹
所属教派も出身神学校も異なるが、日本基督教団扇町教会で長くご奉仕された辻中正一先生と共に働く機会があり、その際、辻中先生から大阪ケズイック・コンベンションに参加するよう促されたのが、私にとってケズイック・コンベンションに関わるきっかけであった。
ケズイック・コンベンションに参加するようになったものの、私が聞いた限り、そこで語られたメッセージのすべてが良かったわけではない。けれども、神の恵みに圧倒され、魂が揺さぶられるメッセージが幾つも語られてきた。そのようなメッセージの一つを本書の中から紹介する。
それは「臨在の中を共に歩む」という、郷家一二三牧師のメッセージである。冒頭では、コロナ禍での礼拝閉鎖を取り上げ、次のように語られている。
なぜ対面の礼拝を閉じたのか。礼拝に臨在される神を信じていたのか。神がわたしたちと共におられ、臨在してくださる。この確信は、万事が順調であり祝福されているときは揺るがなく思えても、社会全体にコロナが蔓延すると、見えないウイルスへの恐れと、感染をとがめられる危惧から、「安息日を覚えてこれを聖とせよ」との十戒を破ってしまうのか。わたしたちは礼拝に臨在される神を正しく理解していたのか。(49ページ)
コロナ禍にあって何が何でも礼拝を強行することが良いとは思わない。しかし、そのことを踏まえつつも、「わたしたちは礼拝に臨在される神を正しく理解していたのか」という問いかけには心を打たれた。必要以上に恐れ、神の臨在の中で歩んでいるということを忘れていたのではないかということを、私自身が問われたような思いがした。
このメッセージでは、マタイによる福音書に記された臨在に関する3つの箇所を通して、神の臨在の中を共に歩むとはどういういうことなのか、力強く語られている。そして、締めくくりの言葉は次のようになっている。
本質的な信仰の問題は、神の臨在をどう信じ、どこに見出し、「神はわれらと共におられる」という喜びに生かされてきたかです。正直に言えば、わたしの場合、まだらな信仰でした。いつまで続くのか。どうして集う人が減って行くのか。いったい自分の何が悪いのか。どこに、何に問題があるのか。そのように自分を責め、周囲を厳しく見ていた。その時も、神の臨在のなかを共に歩む恵みは変わることがなかった。コロナがどんなに猛威を振るう緊急な時も、教会がひたすら耐えてきたと思っていたこの4年間も、神の臨在、共にいてくださる憐れみは、変わらなかった。教会の全ての業と共に、我々一人一人といつも共に、主は共にいてくださった。そうです、主は我らとともに最初から、いつも、罪を犯す時も、世の終わりまで、共にいてくださるお方です。(53~54ページ)
慰められ、励まされるメッセージである。本書にはこのようなメッセージが他にも掲載されている。