読者への愛に満ちた、聖書物語への導き手
〈評者〉小﨑 眞
読める、わかる、聖書のストーリー
竹ヶ原政輝著
A5判・並製・288頁・定価2200円・キリスト新聞社
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本書は大学現場へ嘱託講師として遣わされている一牧師が、学生たちの現実と真摯に向き合い、対話を重ねる中で誕生したものである。高等教育現場における教科書的な要素を秘めながらも、著者自身が「教会においてもニーズがあることを実感しています」と述べているごとく、聖書自体への導き手を呈している。是非、本棚に並べ置きたい良書である。
聖書全体に通底する物語性(分断に抗う物語)に注目した「物語編」と、六十六巻の文書を簡潔に紹介する「文書編」による二部構成により編集されている点は目を惹く。後半の文書編は辞書的要素を含みながらも初学の読者を想定し、分かり易く、かつ、簡潔に構成されている。特に、「〝君〟の名は、インマヌエル」をはじめ若い世代の読者を想定した創造的なサブタイトルには心を惹きつけられる。要所要所に挿入されている解説、年譜、地図などは聖書全体を俯瞰する視座を提供し、学びを整理する上で大きな助けとなっている。コロナ禍の教育現場で苦悩する学生へ寄り添いつつ紡がれた本書ゆえの魅力である。常に学び手への配慮に満ちた著者の愛が随所に編み込まれ、読み手自身の自学自習をも助けている。それゆえ、行間を通して不思議な温もりが与えられ、穏やかな時と場へ導かれる。
一方、自己批判と共に若干の批評を加えることを許していただきたい。筆者が聖書への誤解(「もっと〝教え〟ばかり書いてあるものと思っていた」との学生談。p285)を解くことに心を砕き、明快な説明や的確な解説を加えることに終始したあまり、「教科書」的印象が付与されてしまっていることに言及したい。いわゆる教育現場で、「教授する」ことに誠実であることは、時として学ぶ側を被教授者の枠内へ閉じ込め、協働の学びの機会を失する傾向がある。アクティブラーニングや反転学習など、大学教育自体への再考が期待されている状況下にあって、物語自体から問われ、物語の中に生きる人々との対話を深める工夫があると、より良い学びの展開へのための手がかりとなる。思想家の内田樹は学びに関して、学びとは「小骨がのどに刺さった」状態が続くことであり、人間は無意識のうちに「小骨を溶かすために唾液の〝強度〟を増そうとする」(内田樹「学び」紙上特別講義『朝日新聞』二〇〇五年五月三〇日付)と語った。問いの解明ではなく、問いを共有するための指針があると、さらに聖書そのものを手にすることへと導かれるに違いない。
さらに聖書に出会う際、「生活的読書」から「人生的読書」への転換が期待される(若松英輔『日本人にとってキリスト教とは何か:遠藤周作『深い河』から考える』)。本書に、いわゆる知識や情報の伝達という意味での記述言語の物語(ストーリー)ではなく、共に問い、共に歩むための「ナラティブ」的視座からの展開などが含まれると、さらに魅力を増すことと思われる。本書が種々の現場で用いられることを通し、協働の学びの期待へ応答する新たな成果の萌芽となることを期待したい。
小﨑眞
こざき・まこと=同志社女子大学生活科学部教授