神学の諸領域をまたぐ重要な講演集
〈評者〉金井美彦
本書は上智大学キリスト教文化研究所2023年度聖書講座の講演録である。
第一講は大貫隆「神の国はあなたがたの〈内面に〉―ルカ伝17章21節のεντοςと禿鷲の言葉(ルカ十七37)」。大貫氏の文献学的厳密さと一方の語り口の軽やかさに心打たれつつ読み進む。17章21節は神の国は空間的にどこにあると言えるものではなく、あなたたちの「間にある」とか「手の届く範囲にある」「あなたたちの中に」あるなどと訳される議論のある個所だが、大貫氏はルカの編集による現在の文脈では「あなたがたの内面にある」とするのが妥当であると主張する。その論証が非常に興味深い。誤解を恐れずまとめると。ルカ17章21節の一人ひとりの「内面に」という訳がルカ的文脈では正しいとしうる根拠が、なんと17章37節の、人の子がどこに現れるのかとの弟子たちに問いに対するイエスの「屍体のある所には、禿鷲も集まるものだ」という格言的な応答にあるというのである。詳細は省くが、この一読して不穏不吉な格言が、なぜ神の国のありかを告げる言葉と繋がるのか?氏はこの格言の「格言性」をつぶさに検討し、西洋古典に精通する大貫氏ならではの執念でプルタルコスの『倫理論集』九一八Cに到達する。プルタルコスは禿鷲がいかなる場所からでも屍肉の存在を感知し、来集する姿を無記的に描写している。これは、この禿鷲(に限らないが)の能力の圧倒的な高さを述べている。要するに、禿鷲が屍肉に集まることは、不吉さや不信仰者への罰などでは全くなく、かえって神の支配が一人ひとりの人間に直に及んでいるのだということを禿鷲の嗅覚の鋭さによって象徴させているのだ。そして大貫氏は、この禿鷲が一人ひとりの体に直に向かうことと、神の国が一人ひとりの「内面に」あるということが呼応しているのだとみる。したがってより積極的に「内面に」という訳を支持しうるとする。神の国の「場所」を問うにあたり、実に説得的な論証であった。
第二講は福嶋揚「破局の中の希望」。福嶋氏は現代世界の危機をきわめて真剣かつ深刻にとらえておられ、現在を「破局」に直面する時代とみる。要するに近代化の原動力である資本蓄積から始まった、資本・国家・ネイションが一体となったアクターたちの無際限の競争・闘争によって自然も人間も搾取され、すでに崩壊寸前であるとの認識に立つ(柄谷行人、斎藤幸平、パブロ・セルヴィーニュ、ラファエル・スティーブンス、鈴木宣弘、ジェイソン・ヒッケルらとともに)。一方、キリスト教は終末と破局を分けており、本来終末論とは破局を織り込んだうえでの「希望」の表明であり、しかもそれは旧約のイスラエルの歴史から続くものであり、けっしてニヒリズムではない。それゆえ、この破局の危機を深く認識し、その上で、それとは別の世界を展望してきた神学者、たとえばカール・バルト、ユルゲン・モルトマンらの近・現代への批判的言説の再評価、さらに、資本の論理とは別の、しかしそれなくしては人間が生き得ない「農」(広い意味で)の回復にまで言及し、「希望」を見出す。総じて、著者は危機感に満ちているが、だからこそ、イエスの描いた神の国、すなわち破局を超える希望を語ることが喫緊の課題であるとの認識に、私は全面的に同意する。
第三講、遠藤勝信「創造と終末─創造物語の解釈とヨハネの黙示録の終末論」。この論考で著者は旧約、第二神殿時代のユダヤ教文書、そして黙示録において、いかに創造論の解釈が重要な役割を果たしてきたかについて、実に丁寧に解説されている。紙幅の都合上、詳細は語りえないが、神の創造論の解釈は終末論と密接にかかわるということだ。氏はまず、神の創造の解釈について詩編や第二イザヤのテクストの役割の意味を検討し、さらにその後のユダヤ教黙示文学(ヨベル書、エノク書)における創造物語の再話、そして黙示録の終末論を検討する。そして黙示録の神の呼称表現の二分類(神の永遠性の表現と、創造と終末のセットの表現)の検討を通じ、ついに創造は必然的に(とまでは著者は言っていないが)終末へと拡張されるのだと述べる。評者自身、黙示録の講解説教の途上にあるが、氏の論考は大きな刺激となった。
本書は実に、神学の諸領域をまたぐ重要な講演集である。