聖書の言葉で日本語が変わる
〈評者〉加藤常昭
大きい書物ではないが面白い本である。表題にある「聖書語」というのは、著者の造語である。一般に受け入れられるようになるであろう日本で最初の聖書翻訳が刊行されて以来初めて日本語として知られるようになった言葉のことである。それまでに既に日本語にあったが聖書翻訳に用いられて以来、意味が変わってしまった大切な言葉もある。例えば「神」、「愛」などである。それらについては、すでに著者の論考もある。ここではそれと違って初めて聖書翻訳に用いられた言葉のことである。著者が繰り返し語ることであるが、日本におけるキリスト者の数は、殆ど無視されてしまうほど少数であるが、聖書の売れ行きは隠れたベストセラーと言われるほどよく売れるそうである。そのため聖書で用いられる言葉はキリスト教会の限定された専門用語にとどまらず、教会外でも広く用いられるようになる。必然的にそこで語られる事柄も教会外で用いられるようになる。つまり文学者や思想者の中で広く用いられるようになる。生まれたところは聖書であることなど忘れられる程に一般化する。このような文化現象は大変興味あるものであるが、それほど文化研究者の関心を惹くことではない。
著者はすでに九〇歳の方であるが、長く立教大学で教鞭をとり、かたわら例えば内村鑑三の研究などと共にまさにこのような領域、つまり聖書翻訳の成り立ちやその言葉の読まれ方についても既に業績のある方である。その方がその蘊蓄を傾けて生み出したこの書物はとてもおもしろい。日本文化の営みに関心を持つ一般の方々にとっても面白い書物であるとともに日本伝道の責任を負う我々にとっても必読の書物である。例えば説教者にとっても必読の書であると考える。ただ一読するだけではなく、常時傍において何度も繰り返して読むと良いであろう。
本をひらいてみよう。前書きに続いて本文に入る。辞典のように聖書語が列挙される。
そこには「教会」、「洗礼」などのように当然と思われる聖書語もあるが、「パン」「兄弟」などのようにへぇと思われるような一般的と思われる用語もある。単語ではなく「一粒の麦」などのような、文字というよりもフレーズの類もいくつもある。ほぼ一〇〇例である。例えばパンの項目を開いてみよう。主イエスが語られた「人はパンのみで生きるのではない」との御言葉の翻訳などで初めて用いられた。それ以前の聖書の翻訳では「餅」の言葉で翻訳されたらしい。明治の時代になってはじめて日本人はこの用語に出会ったらしい。そこで著者は何人もの人々がその作文の中でこの「パン」という用語を用いている。例えば徳富蘆花に始まり漱石その他に及ぶ最後は加藤周一の『羊の歌』にまで及ぶ。あるいは「隣」の一項である。主イエスは隣人を愛するようにと言われた御言葉は、多くの人々の心を動かすこととなった。隣人愛という事柄が日本人の心を突き動かしたのである。そのことがここにおける西田哲学をはじめ太宰文学の核心にまで触れることになったことを数多くの引用から知ることができる。
右の例から分かるように著者が引用する文献は広く各領域に及ぶ。日頃著者がどれだけ多くの文献に触れているか驚嘆に値する。それだけでも読んでいて楽しいし、こちらまで豊かにされる。私が思うに、今は日本文化とのこのような対話をする人が少なくなっている。日本の教会の為にも、教会外の世界にとっても残念なことであると思う。この書物が火付け役となってこうした日本文化と教会との関わりの関心が新しく向けられ、対話が進み研究が深められることを願う。面白い経験をさせて頂き、著者に感謝する。
加藤常昭
かとう・つねあき=日本基督教団隠退教師