古代ヘブライ語、アラム語の世界的権威による画期的な翻訳
〈評者〉山我哲雄
約七五年前に死海のほとりのクムランの洞窟で偶然発見された死海文書は、それまで知られていなかった紀元前後のユダヤ教の多様なあり方に光を当て、またキリスト教の成立の謎を解くうえでも鍵になるものとして、世界中の注目を集めた。それだけではない。それが世の終わりの切迫を前提とした強烈な終末論を含むものであったために、ジャーナリズム等に興味本位で取り上げられ、しかも最初の段階で復元、解読の作業に当たったスタッフにカトリックの司祭が多かったこともあり、カトリックにとって不都合な事柄が多数書かれているのでバチカンの命により肝心の部分が隠匿されている、などという陰謀論まがいの言説も流布したりした。
その後、発見された文書のほとんどが公刊され、またオンラインを通じてその写真版が公開されて誰でもアクセスができるようになったことや、堅実な研究が数多く出版され、文書の内容が正確に知られるようになったこともあり、死海文書に向けられる目はより冷静なものになった。しかし、わが国ではこのところ、死海文書に新たな注目が集まりつつある。これまで死海文書の邦訳と言えば、聖書学研究所の一巻本(『死海文書』山本書店)しかなかったのだが、聖書写本を除きほとんどの文書を網羅した一二巻予定の『死海文書』のシリーズが、ぷねうま社から刊行されはじめたからである。昨年、教文館からコリンズのよくまとまった概説書(『『死海文書』物語─どのように発見され、読まれてきたか』)も出た。今回は同じ教文館から、古代ヘブライ語、アラム語研究の世界的権威である村岡崇光氏による『精選 死海文書』が出版された。「あとがき」に「基本的な文書については複数の和訳があるのもそれなりの意義が認められるのではなかろうか」とあるが、まさにその通りで、大いに歓迎したい。
今回「精選」されたのは三点で、最初の「創世記外典」は「創世記アポクリュフォン」とも呼ばれるが、創世記の物語を敷衍したアラム語文書で、ノアの誕生(創五29)あたりからアブラハム契約の冒頭部分(創一五2)までを扱う。聖書にはない、ノアの誕生時に父のレメクが、妻がネフィリム(創六4)と不倫したのではないかと疑い、問い詰める場面や、創世記一二15に当たる部分で、エジプトの役人たちが、サライがいかに美しいかをファラオに延々と褒めそやす場面が面白い。
「ハバクク書注解」は「ペシェル」という解釈技法により、ハバククの預言を死海文書を生み出したクムラン教団の同時代の状況に結びつけて解釈したヘブライ語の文書で、例えばハバククの時代のカルデア人を意味した「カスディーム」の語が、クムラン教団の時代の「キッティム」、すなわちローマ軍を指すものとして再解釈されている。クムラン教団の指導者と思しき「正義の教師」と、エルサレムの大祭司と思われる「不正な祭司」の対決が描かれており、クムラン教団の歴史的な起源に思いを馳せさせる。
「共同体の規約」は「宗規要覧」とも呼ばれるヘブライ語の文書で、訳者自身の言葉によればクムラン教団の「憲章」とも言えるものであり、教団員の心構えを説いた前文に続き、(見習い期間を含む)入団手続き、教団の組織、贖罪の儀式、二元論的世界観、日常生活に関わる規定、違反と罰則(ここが具体的で面白い)、導師の役割などについて記され、荘重な賛歌で結ばれる。
訳文は大家の手によるものだけに正確かつ達意であるだけでなく、日本語として驚くほどこなれ(すぎ?)ていて、非常に読みやすい。「枕を高くして寝られない」、「地蔵屋」(偶像職人のこと)、「愚の骨頂」、「四面楚歌」(!)、「自力本願」(!!)などといった思い切った意訳には驚かされる。評者はぷねうま社版で「ハバクク書注解」を担当し、原文の意味の取りにくさや文法上の問題で難渋したが、今回の村岡氏の訳文を見て、「その手があったか!」と目から鱗がいくつも落ちる思いであった。一言だけ不満を記させていただければ、一二〇頁の小著であるが、いささか「精選」されすぎである。クムラン教団の独特の終末論を展開した黙示文学「戦いの巻物」もぜひ収録していただきたかった。
山我哲雄
やまが・てつお=日本旧約学会前会長