すべてのキリスト教徒の必読書
〈評者〉竹田文彦
本書の著者ウェア主教は、オックスフォード大学で古典学と神学を学ばれた後、二四歳の時にイギリス国教会から正教会に転会、修道者名「カリストス」を与えられ、ギリシアのパトモス島で修行されました。一九六六年に司祭に叙聖されてからオックスフォードに戻られ、大学で古代キリスト教における教義形成、教父思想、現代東方神学などの講義を担当されるかたわら一九八二年に輔佐主教に任じられ、ギリシャ正教オックスフォード共同体の司牧にも当たられました。ウェア主教は、評者自身の博士論文指導教授でもありますが、白い長いひげを蓄え、ゆっくりとした低い声で、複雑な主題でも明快にわかりやすく講義されていた姿がいまでも懐かしく思い出されます。ウェア主教の講義は、いつでも学生たちで教室がいっぱいでしたし、郊外の東方キリスト教研究所で毎週開かれていた公開セミナーにも多くの学生たちや研究者が集まり、熱い討論が行われていました。私がオックスフォードに学んだ一九九二年から九八年当時はソビエト連邦の崩壊によりロシアや東欧圏から多くの学生たちがオックスフォード大学に留学してきていて、ウェア主教のもとにもロシアを初め、アルメニア、グルジアといった国の学生たちがおりました。ウェア主教は、そうした学生たちを熱心に指導されるとともに、精神的にも励ましておられました。
さて、本書『正教の道』は、いわゆる一般的な正教会、あるいは、正教の信仰についての概説書ではありません(そのために著者は、本書とは別に『正教会入門─東方キリスト教の歴史・信仰・礼拝』という書物を書いており、すでに邦訳されています)。すべてのキリスト教徒がたどる「いのちの道」(信仰の道)について語り、それによりキリスト教信仰の本質を問うおうとしたものです。まず第一章「神秘としての神」では、この「道」の目標でもある神について語られています。神は、一方でわれわれ人間にとって「絶対他者」であり、遠い存在でありますが、他方、比類なく身近な存在でもあります。この一見矛盾していると思われることを、著者は、否定神学の伝統と、神の本性とエネルギアの区別から説明しています。この「いのちの道」の終着点は、至聖三者なる神の愛の交わりの中に私たちが取り込まれることでありますが、第二章「至聖三者としての神」では、キリスト教の三一神観について言及しています。そして、第三章から第五章において、至聖三者(三位格)それぞれについてさらに詳しく考察が加えられていきます。第三章「創造主としての神」では神の創造の御業と神の似姿である人間の堕落が語られ、第四章「人としての神」では、受肉した御子の人性と神性や、処女懐胎や死と復活が論じられます。第五章「聖霊と神」では、聖霊の他の二位格との関係と聖霊の賜物の大切さが強調されています。第六章「祈りとしての神」では、「いのちの道」の浄化、照明、一致の三段階とその前提として信者に求められることが示され、最後に、エピローグ「永遠の神」では、キリスト者の希望である復活と永遠のいのちについて述べられます。
本書は、正教神学の伝統にしたがって書かれていますが、正教徒や正教の信仰に関心をもつ人のためだけのものではありません。教派を問わず是非すべてのキリスト教徒に読んで頂き、自らの信仰の歩みの参考として頂きたい書物です。本書の大きな特徴は、「いのちの道」の道標として、古代教父、現代の著作家、正教の祈祷文など、含蓄深い数多くの言葉が引用されていることです。それらの言葉は、実際に著者自身の信仰の歩みを導いてきたものでしょうし、また私たちにとっても素晴らしい道案内となるものです。
最後に、多くの引用が含まれる本書の翻訳は決して容易なことではなかったと推察されます。にもかかわらず、素晴らしい本書を日本の読者に紹介して下さった正教会司祭 松島雄一師に心から感謝したいと思います。なお、ウェア主教は、今年八月に闘病の末、八七歳でご逝去されました。
竹田文彦
たけだ・ふみひこ=清泉女子大学教授