イエスに見出したキリスト教教育の原点
〈評者〉小池茂子
本著は大学教育の場をキリスト教宣教の場として捉え、若い学生たちへ福音を伝えることを自らの使命とし、それを全うした一人の学者・教育者の証しといえる。著者は、国際基督教大学大学院を経て、米国のドルー大学神学部、同大学大学院に学び学位を取得したキリスト教教育、ホーレス・ブッシュネル研究の第一人者である。本書では二〇二一年三月に聖学院大学大学院客員教授として職業生活を終えたことを機に、自らの人生を総括するごとく、長きにわたる大学人としての生活とそこにあった人との出遭いや教え、ライフワークとしてきたブッシュネルのキリスト教教育論が紹介されている。
しかし、本書の中心は、一人のキリスト者として著者が最も大切にしてきた大学礼拝で若き学生たちに語り掛けた奨励原稿の数々である。本書には一九七二年以降半世紀に亘る奨励が収録されている。奨励の内容からは著者が大学礼拝の中で一貫して聖書の解き明かしを行い、まだ信仰を持つに至っていない若い魂に向かってイエスの教えや問い掛けを解りやすいことばで伝え、彼らの心を回心に導こうとする熱意と祈りが読み取れる。「キリスト教教育は、人間の最も深い部分で最も徹底した形で変わらずにはおれないように学生を教育することでなければ、それは(いきている)キリスト教教育とは言えない」(六一頁)という著者の言葉は、キリスト教教育研究者としてまた大学人としてたどり着いた一つのテーゼであるといえるだろう。
このキリスト教教育に関する核心を大学礼拝で取り上げたのが、著書のタイトルにある新約聖書ルカによる福音書第二四章一三─三二節の「エマオ途上でのできごと」を扱った奨励である。著者は「教育というのも、教師が、生徒や学生の人たちに同行することによって─生徒や学生の人たちが、自分たちだけだったら、変わることができないかもしれないのに─、変わっていくこと、変えられていくこと、であると言えるのではないでしょうか」と論じている(九三頁)。教育学では、教育とは、今ある状態にある者に他者が働きかけ、その働きかけられた者をあるべき状態へと導いていく営為であると定義される。イエスは自分を裏切った弟子たちに再び姿を現し、彼らと共に語らいながらエマオへの道を歩み食事を共にした。そしてその交わり(イエスの働きかけ)を通じて「彼らは互に言った、『道々お話しになったとき、また聖書を説き明してくださったとき、お互の心が内に燃えたではないか』」(三二節)と、弟子たちの何かが変わったことに著者は着目する。そして、本当の教育とは、教育を行う者とそれを受ける者との双方において「心が内に燃えたではないか」という経験を共有することだと自身の確信を述べる。大学における教育者・研究者として、著者はエマオ途上の弟子に対するイエスの働きかけにキリスト教教育の原点を見出し、それを自らに課してきたことが読み取れる。
この他にも大学礼拝の奨励原稿が多数収録されており、そこには大学での教育・研究を通じてキリストを証しした著者の生きざまが刻まれている。
小池茂子
こいけ・しげこ=聖学院大学学長