異なる霊的伝統が出会い人間の危機に祈り警鐘する
〈評者〉石原明子
私は、生きて押田神父と出会えていたか、それとも、あれは夢だったか。記憶が正しければ、押田神父の存在が、私の中に小さくしかし強烈に刻まれたのは、国際基督教大学の学生のときだった。徹底した無宗教の家に育ち、キリスト教に全く関心がなかったが、大学で開かれた押田神父という人の公開講演会をふと覗いた。もう終わる直前で、講演全体の内容はわからないのに、そのたった十分で、その言霊に私の魂は稲妻を打たれた。
その後私は、人生の苦難に直面し、小乗仏教と出会っていった。仏教瞑想をするうちに、突然、聖書の意味が私の中に降りてきた。教会にも導かれ、キリスト者になった。
本書は、世界の多様な精神的伝統の指導者が、押田神父の高森草庵に集った「九月会議」の記録を中心に編まれている。他に、押田神父による関連著作も収められている。
「九月会議」(1981年)では、日本、インド、バングラディシュ、韓国、米国、アフリカなど世界十か国以上の国・地域から、キリスト教、ヒンズー教、仏教、ネイティブ・アメリカンなどの多様な宗教・霊的伝統の指導者が集い、一週間ほどの時を共に過ごし、それぞれの宗教・霊的伝承の深みから見える現代文明への「ながめ」を分かち合った。偉大なるリーダーたちによる宗教間対話の記録ともいえるが、読み進めると、違いが際立つよりもむしろ、同じ地球に、同じ文明に生き、その文明によるいのちと人間の危機を憂い、祈り、行動する兄弟・同志たちの共通した悲しみと、それを越えんとする慈愛のみが印象に残った。
興味深いのは、それぞれの霊的伝統に深く根差して見えゆく景色は、それ自体がすでに大いなる真理を表現しているのに、対話を通じ、他の霊的伝統との差異に出会う中で、むしろ人智を越えた神の真理がさらなる形でたち顕れ、より真理の深みへと降りてゆくような旅路がそこにあったことだ。
押田神父は、祈りは、「イ(息)+ノリ」というが、読み進めるごとに、指導者たちが一堂に会して交換したことばと呼吸の「プネウマ」が、私にも温かく迫ってくるようだった。絶望を見たからこその集いの喜びがあった。
本書を読んで、長年解けなかった疑問に答えが与えられたことがあった。「無」についてだ。仏教伝統では「無」「空」の大事さが説かれるが、すべてが「無」「空」では何か虚しくないだろうかと、今ひとつ受け入れがたく思ってきた。押田神父の「祈りの姿に無の風が吹く」を読み、「無」とはなんと豊かなのか! と感動した。著作から見えた「無」は、何物をも所有しようとしない、一つの世界観や物の見方から自由になる、というイメージだ。所有しようとしない、固定化しないから、あらゆるものに開かれ、与えられる豊かさ。本来私たちは何一つ所有できてないのに、所有しようとするから、苦しみが生まれる。西洋近代に発する現代文明の病。それは元々の西洋文化ともキリスト教とも別物だと説く。2003年に天に召された押田神父の警鐘は、その後の原発事故やコロナ問題のことまで、まるで見えていたかのような鋭さがある。神父はいう。観念や意識の世界に生きるな。根をもつことが大事である、と。
石原明子
いしはら・あきこ:熊本大学准教授
- 2021年5月1日