聖書を共に、神学的に読む喜び
〈評者〉石川 立
『小川修パウロ書簡講義録』全巻の刊行が完結した。
本書『小川修パウロ書簡講義録 8 ガラテヤ書講義Ⅱ』は、『同 7 ガラテヤ書講義Ⅰ」の続巻であるが、『講義録』全10巻の完結を祝う記念すべき巻でもある。二〇一一年に始まった『講義録』刊行から十一年の歳月を数えたことになる。
本書に収録された講義は、二〇〇七年度に同志社大学大学院神学研究科の授業として神学館二階演習室2で行われたものである。これに二〇一〇年四月に日本福音ルーテル東京池袋教会で行われた講演が続き、七名の「編集者の声」によってこの最終刊行の巻は締めくくられている。
当『講義録』は、パウロ書簡の解説や説明ではない。パウロ書簡を読もうが読むまいが、例外なくすべての人間を根源的に生かし支える事柄(独語で「ザッヘ」)そのものを、パウロを通して明らかにしようとする書である。キリストの〈まこと〉(ふつう「信仰」と訳されるギリシヤ語ピスティスの当『講義録』での訳)がこのザッヘに当たる。
本書の講義が扱うガラテヤ書の後半、四、五、六章には、二章の言葉「生きているのは、もうわたしではない。キリストがわたしのうちに生きている」(「人基一体」と呼ばれる)が引き続き鳴り響いている。いや、より正確に言えば、この『講義録』全巻において、私たちすべての内なるキリストという〈まこと〉の福音の喜びが、パウロ書簡の一字一句を通して私たちに響いて来ているのである。
『講義録』にはコツコツと黒板を叩く音や咳払い等も洩れなく記録されている。そこに醸し出される臨場感の中で、読者もその場に、聴講している学生たちと共に居合わせることができる。机上で一人要旨だけを掴みとるような理解の仕方ではなく、『講義録』の読者は、教室の中で、神の〈まこと〉の福音の響きに身を任せ、聖書を神学的に読む喜びを学生たちと共に経験することができるのである。
同志社の講義では、少々よそ行きの言葉遣いをされていたのかもしれないが、東京の教会での講演「パウロは何を説いたのか」では、より打ち解けた雰囲気で、小川先生(私たちの学校の教壇に立たれたので「先生」と呼ばせていただく)のべらんめえ調が炸裂し小気味がいい。そこには全10巻で縷々語られたことが端的に陳べられている。人間は〈からだ〉であり、その〈からだ〉の本当の主人公はキリストの〈まこと〉。生死はすべてキリストという〈まこと〉の中にあり、これが復活である。キリストという〈まこと〉があくまでも私たちの〈主〉である。
「編集者の声」では、小川先生の「投げかけ」が明確にされ真摯に受けとめられる。先生にどう応えるのかはまた、『講義録』の読者すべてにとっても課題になる。
刊行会や編集者の方々に敬意を表したい。『講義録』の発行を企画し、講義・講演中のわずかな音も聞き逃さずに記録し編集することは、少なからぬ犠牲を強いただろう。
最後に、小川先生を同志社神学部にお呼びした者として一言。個人的な事情で授業を代わりに担当していただいたのだが、それを機に、全10巻の『講義録』という果実が誕生した。このことに評者は誰よりも驚きを覚えている。そして、喜び感謝している。
石川立
いしかわ・りつ=同志社大学神学部教授