古典的名著を現代の文脈で読み直す
〈評者〉伊藤節彦
本書の成立には、忘れがたい背景がある。一九七六年から七七年の冬学期、エーバハルト・ユンゲルはルターの『キリスト者の自由』を題材に講義を予定していたが、学生紛争のただ中で断念を余儀なくされた。人々が切実に問い求めていたのは「自由」であった。ユンゲルはこの問いを正面から受け止め、同年八月、ルント国際ルター研究学会における基調講演として本書の母体となる論考を発表した。本書は、時代の問いと福音の自由とを真正面から突き合わせた神学的思索の結実である。
本書は三部から構成される。第Ⅰ部では、ルターを単なる歴史的影響としてではなく、「神学的に問う」ことの意義が論じられる。第Ⅱ部「神の不可視性から神の秘匿性へ」では、十字架の神学を軸に、言語論と人間理解が展開される。そして第Ⅲ部は『キリスト者の自由』のパラフレーズであり、「自由な主」であると同時に「すべてに仕える僕」であるという逆説が、キリスト論的に解き明かされる。読者はこの構成に導かれながら、ルターの洞察が現代においてどのように生きるかを辿る。
ユンゲルの解釈の要は、「内的人間」と「外的人間」の区別を神学的に読み直す点にある。この区別は内面への逃避ではない。神の言葉が外から人間に語りかけ、人間を自分自身の外へと方向づけ直すとき、初めて真の内的人間が成立する。内的人間とは自分自身から「呼び出された人間」であり、神との関係において新たに生かされる存在である。そのとき外的人間もまた、隣人への愛の行為へと解き放たれる。ここに、信仰に生きることがそのまま隣人への愛の行為へと開かれていく、キリスト者の生の基本構造が示されている。
本書は、訳者佐々木勝彦氏によって紹介されてきたユンゲル神学の流れの中で読むと、その意義がいっそう明らかになる。『世界の神秘としての神』『義認の福音』において語られた神の出来事が、本書ではキリスト者の自由として、より身近な信仰の現実へと開かれている。神が人間の罪と死を担い、人間が神の義と命に与るという出来事が、自由と愛の源泉として改めて示されている。
ルター派の牧師として本書を読むとき、説教の場で問われる根本問題に立ち返らされる。陳腐化された「自由」という問いに、教会は何と応えているのか。もし行いへの勧めが先に立つならば、すでに順序は逆転している。本書が繰り返し確認するのは、自由は達成されるものではなく、神の言葉によって告げられる現実である。説教とはその告知であり、聞かれる出来事の中で自由は与えられる。信仰によって神に結ばれ、そこから愛によって隣人へと向かう歩みの中に、キリスト者の生は形づくられる。
本書は入門書というよりも、すでにルターのテキストに触れてきた読者に、新たな読みの地平を開く書である。佐々木訳はユンゲルの思索の緊張を損なうことなく、丁寧に日本語へと移している。本書は一読して理解し尽くされるものではなく、むしろ繰り返し読み返す中で、その都度新たな光を放つ書である。牧師・神学生のみならず、自由をめぐる問いに向き合うすべての読者にとって、長く手元に置かれるべき一冊である。













