すべては「イエス運動の実相」から
〈評者〉佐藤幹雄
書き遺す神学へのメモ
─贖罪・文化・歴史・老いる─【増補版】
渡辺英俊著
大倉一郎編
四六判・142頁・定価1100円・ラキネット出版
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本書は、神学的思索の遺言と告白して記された著者の論考である。「Ⅰ贖罪」「Ⅱ文化」「Ⅲ歴史」「Ⅳ老い」の四部からなっているが、本論に入ってすぐ、著者はこう述べている。
「自分の神学の営みにおいて、私が関心の中心に置いてきたのは、『史的イエス』と『贖罪論』であった。牧師としての活動においても、神学的にはこの二つが楕円の焦点のようになって動いてきた。」(「Ⅰ贖罪」の冒頭)
このように、著者は、自分の思考・行動を生み出す場を楕円に例えて、「史的イエス」と「贖罪論」を、その楕円の二つの焦点であると言う。それほどに分けることが困難だというわけだが、実際には、著者が理解したイエス運動の実相から、「贖罪論」を捉え直してきたことが読み取れる。
また、それに続く「Ⅱ文化」も「Ⅲ歴史」も、「Ⅰ贖罪」で論じてきたことを、別の切り口で論じたものと言えよう。すなわち、著者は、「Ⅱ文化」において、Ⅰで論じてきた「罪」を、神話の中の抽象化された罪観念から引きはがして、現実の社会・歴史の中での具体的かつ根源的な罪の実相として示している。また、「Ⅲ歴史」においても、「教会史=世俗史と切り離した救済史」と考えて現実世界の歴史への責任・関与を放棄してきた教会の在り方を批判しつつ、世界の歴史を神の働く場として、また、私達をその神と共に働く者として意味づけるのである。
さて、著者は、フィリピンで解放の神学に触れた体験から、社会の最下層に置かれた人々の視点で聖書を読み返す作業をしている。そして、そこで見えてきたものが、土地(富)を奪い、囲い込む(貯め込む)ことを当然とする獰猛な「文化」が、奪ったり貯め込んだりしない本来的で優しい「文化」を踏みにじってきた「歴史」である。そこで、著者は、その獰猛な「文化」に支配されている現実を「(原)罪」として示し、イエスの運動を、その中で貧しくされた人々を解放する活動として捉えるのである。
著者の姿勢は、イエスやその後のキリスト教会の在りようをどう捉えるかにおいて一貫している。すなわち、著者は、神話的・救済史的なものを排して、現実の歴史の中を生きたイエスを提示するのである。著者は、そのようにして受け止めたイエス運動の実相やその後の歴史を踏まえて、神話や護教論から導き出されたものとは全く違う新しい「贖罪論」「宣教論」「終末論」を提示するのである。
著者は、聖書学に憧憬が深く、その研究者と言ってもよい方だが、やはり、それ以上に「牧師」「運動家」であると思わされる。著者は、史的イエス研究の「蓋然性」という言葉に身を隠すことなく、解放の神学という「低み」の視点から捉えたイエスの姿を確かなものとして受け止め、そこに立つという「決断」をして、そこを足掛かりに「運動」へと展開しているように思えるからである。著者が「書き遺す」と決めた内容と志は、そこにあるのではないだろうか。多くの人に、とりわけ、牧師として現場に立ちつつ思索する人には、ぜひ読んでいただきたい書物である。
ちなみに、この著作は、三つの「論考」のあとに、著者自身の「老い」を語る「エッセイ」が続くが、私には、それについて「論評」できる力がない。そこで、三つの「論考」についてのみ、考えたことを述べさせていただいた。
佐藤幹雄
さとう・みきお=日本キリスト教団岩見沢教会牧師