子どもと共に育つ教会を目指して
〈評者〉レオン蔡香
昨年秋に出版された『イザヤ書を読もう』上に続いて、本書下巻の刊行により、イザヤ書の構造と信仰を語る珠玉の解説書が完結しました。イザヤ書研究の専門家である著者はこの書物の成立経緯を追跡し、この書物の全体と個別の預言詩から使信を聞き出すことに力を注いできました。本書はその最後の試みでしたが、著者はその出版を待たずに惜しくも昨年末に召されました。著者がイザヤ書の使信を解き明かす説得的な姿勢と静かな語調とが、読者に心地よい印象を残します。読者の信仰生活に寄与したいと願う著者の思いが、読者の心に届くからでしょう。
本書が取り上げる第二・第三イザヤ書(40~55章、56~66章) は捕囚帰還後の無力な国民に対して、新しい信仰の民の建設を目指して、力強く美しい言葉を語る預言詩群です。第二イザヤ書はその終わりで、歴史を導く神に信頼して祖国への帰還を促した一人の指導者の苦闘と死を語って、彼の働きを積極的に受け止めるようにと促します。後代、初代教会の人々はその詩文から、十字架上に死んだイエスが人々の罪を背負った救い主であるとの確信を深めました。定着後に記された第三イザヤ書は、定着開始時の人々が在地の支配者たちの横暴に屈することなく共同体を形成するようにとの、彼らの主の励ましの言葉を語ります。また、彼らの努力を目撃してイスラエルの神に信頼する周囲の人々は誰でも、民族間の壁を越えて信仰の民に加わることができるという普遍主義的な主張を力強く打ち出しました。その精神は後代、普遍的なキリスト教教会の形成に寄与しました。またこの書においては、神殿は宗教心を満足させる施設ではなく、自民族とすべての民にとっての「祈りの家」(56・7) でした。その信念はイエスに継承されました。キリスト教は第二・第三イザヤ書によって準備されたと言えるでしょう。
第二イザヤ書はイメージ豊かな詩文を特色としますが、著者は文学的鑑賞に止まることを避けて、テキストを生み出した時代と現代に共通する課題に読者の関心を向けさせます。その一例を挙げましょう。かつてルターは「イスラエルの神、救い主よ まことに、あなたはご自分を隠される神」(45・15) という一句に基づいて、「隠されたる神」という独自の理解を掘り下げましたが、著者は神学的議論を避け、人々がバビロニアにおいて体験し、現在も直面する「偶像礼拝」という現実的な課題を提示します。偶像礼拝は単に礼拝対象の選択ミスではなく、本質的には自由な神を自分たちの救済欲望に閉じ込めて「自由な神」を抹消する行為です。イスラエルの民は自分たちに都合の良い神を求めながら、捕囚からの解放を期待しました。第二イザヤはそのような罪の現実を見据えつつ、民の解放を神による一方的な民の贖い出しとして理解しました。偶像礼拝の問題は今なお今日的な問題です。
病床での著者の依頼に応えて、編集者の土肥研一氏が著者への敬意に満ちた「あとがきにかえて」を書き添えました。それによれば著者はテキストを生み出した歴史的文脈と現在の文脈とを大事にし、恩師左近淑先生の学風を引き継ぐ仕事をしたいと願っていたとのことです。本書は著者がその実践に取り組んだ最後の機会となりました。本書の出版を慶びます。
















