預言者的・官憲的宗教改革「第二世代」の深みと広がり
〈評者〉大石周平
宗教改革第二世代に関心を持ち続けてきた一麦出版社から、本邦初となる本格的なブリンガー伝が出版された。ジュネーヴのカルヴァンに勝るとも劣らない「改革派の伝統のもう一人の立案者」(一六一頁)に、ようやく相応しいスポットが当たる。
著者は、十六世紀以降の歴史や社会制度に関する諸論文のほか、訳書『ヨハネス・ア・ラスコ1499−1560 イングランド宗教改革のポーランド人』でも知られる堀江洋文氏。米国べテル神学校(修士)や英国ケンブリッジ大学(博士)、スイス・チューリヒ大学宗教改革研究所(在外研究)に学ばれて以来の、長年にわたる論考がまとめられ、ここに書き下ろされた。米国ではイタリア人改革者ヴェルミーリ研究、イングランドでは国政史や古文書学、スイスでは鋭意進行中だったブリンガー書簡編纂に携わる最先端の研究者との対話が、本書に反映している。
カラー写真で現地に思いを馳せ、早速序論(Ⅰ)と研究小史(Ⅱ)を読み始める。すると本書が、一万二千通に及ぶ書簡にも目配せをし、「国際ブリンガー主義」(一四頁)ともいうべき相関関係を意識して執筆されたことがわかる。改革者の生い立ち(Ⅲ)であれ、神学(Ⅳ)であれ、ブリンガーを語ることは、「ヨーロッパ宗教改革」を語るに等しい。イングランドとの、あるいはイタリア人改革者との関係が整理される最終章(Ⅴ)に至る頃には、ルター派から(再)洗礼派まで、あるいは改革派内部でも、一枚岩とはいかない福音主義陣営の中で、ブリンガーがいかなる存在感を示したか、過大・過小のいずれの評価にも陥らない適切なイメージを抱くことになる。
今からちょうど五百年前の一五二三年、ブリンガーは齢十八にして、カッペル修道院附属の学校長となる。本書によれば、同校での人文主義的な教育論とカリキュラムが、ツヴィングリ創設の教育的聖書研究機関「プロフェツァイ」(預言)に流れ入り、改革派の神学教育の基礎を据えた。三一年、四十七歳で急逝したツヴィングリを継ぐ者と認められた二十歳年下のブリンガーは、敗戦に傷つく時代の「預言者」として、改革を牽引する立場に立たされる。その後七十一歳で死去するまで、チューリヒから離れずに根を張って、亡命者や留学生と交流し、世界に呼ばわり枝葉を広げたことは、改革派の一大牙城として同市が立つための大きな力となった。
「預言者的」務めの第一は、ペスト禍中の「遺言」として書かれた「第二スイス信仰告白」にあるとおり、神の言葉そのものを取り次ぐ説教である。本書を読み、附録の説教集『セルモヌム・デカデス』の抄訳にふれるにつれ、当時一級の影響力をもった説教集全編が日本語で公刊される日を、待ち望まずにはおれない。邦訳された書簡二つを含む附録からは、予定説に関するブリンガーの「穏健な」立場と、それに満足できない批判者との緊張も示される。二重予定説をめぐるカルヴァンとの距離感については、聖餐理解や契約神学にも関わる主題として紙幅が割かれ、ブリンガー没後のドルトレヒト会議にまで射程が伸びる。
もう一点、注目されるブリンガー神学の特徴は、その「官憲的」性格である。同僚レオ・ユートが主張した「政教分離」に対し、彼は教会と市政府の密接な関係をとおして、キリストのもと世俗世界をも包括的に捉えた。本書で最も学術的な厳密さが示される論考の一つは、婚姻法と裁判制度についてジュネーヴとの比較がなされ、中世カノン法からピューリタニズムの倫理に至る史的影響関係が問われる部分である。陪餐停止を伴う破門権の行使により市民生活を監視したジュネーヴ教会と、カトリック司教管轄の裁判所が介入する道を閉ざすべく、風紀取締りを当局に委ねたチューリヒ教会。後者では、一方の市政府側から、牧師が政治に口出しせぬよう働きかける向きもあったが、対するブリンガーは、神の言葉に生きる者の、世に対する批判的言論の自由を擁護し、預言者的自由と官憲的責務とのバランス感覚を示した。社会との接点を今問い直すべき日本の教会が、「預言者的にして官憲的な」改革教会の伝統から学ぶべきことも、やはり多いのだと思わされる。
大石周平
おおいし・しゅうへい=日本キリスト教会多摩地域教会牧師/青山学院大学非常勤講師