人間の弱さに寄り添うイエス
〈評者〉片柳弘史
遠藤周作研究の第一人者として知られる山根道公(みちひろ)先生が、遠藤周作生誕百年の節目に当たって編さんした一日一言の言葉集。遠藤氏と共にフランスに留学し、生涯の盟友であった井上洋治神父の弟子として、生前の遠藤氏とも親交が深かった山根先生ならではの絶妙な言葉選びで、遠藤文学の一つの集大成といってよい作品に仕上がっている。『沈黙』『イエスの生涯』『侍』『深い河』などの代表作だけでなく、エッセイ集や日記などからも幅広く引用されており、一日一言の短い言葉を読むたびごとに、遠藤氏の作品が一つひとつ思いだされる。
キリシタン迫害を描いた『沈黙』を頂点とする遠藤文学に一貫して流れるテーマは、「人間の弱さに寄り添うイエスの愛」だといってよいだろう。『沈黙』に描かれたイエスは、苦しみの中で踏絵に足をかけようとする司祭に「踏むがいい」と語りかけ、司祭の苦しみを共に担うイエス、人間と一緒に苦しむことで人間を救うイエスだった。この本にも、そのテーマが貫かれている。この本に収められた言葉の一つひとつが、人間を罪人として裁く神ではなく、弱いわたしたちをあるがままに受け入れる愛の神へとわたしたちを導いてくれる。
遠藤氏が描くイエスは、奇蹟など行うことができない、まったく無力なイエスだ。本書で引用されている言葉の中にも、無力な人間の苦しみを共に味わう無力なイエスの姿がたびたび登場する。相手と共に苦しみを担う者だけが、相手を愛することができる。人々を救うために「必要なのは『愛』であって病気を治す『奇蹟』ではなかった」と考える遠藤氏にとって、イエスはどうしても無力である必要があったのだ。無力なイエスは、わたしたちを裁くことがない。イエスは、わたしたち人間を愛するため、愛することによって救うために遣わされたという遠藤氏の信仰。その信仰に基づいて発せられた一つひとつの言葉は、どこまでも優しく、わたしたちの弱さに寄り添ってくれる。遠藤氏の言葉自体に、イエスの救いの力が宿っているといってもよいだろう。
遠藤氏は、母親から譲り受けたキリスト教の信仰を自分の体に合わない洋服のようだと感じ、その洋服を自分の身の丈に合うものに作り変えることに生涯をかけて取り組んだ。「日本人の心に合うキリスト教」を求め続けた生涯だったといってもよいだろう。その結果としてたどり着いたのが、あるがままの人間をゆるし、受け入れる神であり、人間の無力さと無力さから生まれる苦しみを共に担うために、まったく無力な者となったイエスだった。日本の宣教の歴史を振り返って、遠藤氏ほど日本社会に広く、また深く受け入れられたキリスト教徒はいないといってよいだろう。その事実は、遠藤氏がたどりついたキリスト教の姿こそ、日本人の心に合うキリスト教に近いことを示している。この本の中には、二十一世紀の日本にあってキリストの愛を人々に伝えようと努力するわたしたちにとって、ヒントになる言葉がたくさん詰め込まれているといってよい。山根先生が編んでくださったこの本は、自分の信仰を見つめ直すためにも、宣教のための手掛かりを探すためにも最適の一冊といえる。
片柳弘史
かたやなぎ・ひろし=イエズス会司祭