生まれながらにして、私は、二つのことを背負わされた。「カトリック性」と「在日性」である。母方は朝鮮キリシタンと呼んでいいほどの古いカトリック一族で、大正の終わり頃に日本に渡ってきた。なぜか広島に住み、家族全員が被爆した。その点では、「被爆性」も背負わされたといってもよい。「これを日本社会でどう生きるか」という問いを避けることもできたが、そうはせずに、真摯に向き合うべきと決断した時から、自分の生き方は大方決まってしまったと言ってもいい。14歳だった。そして、答えを見出すべく悶々としていた時に出会ったのが、「カトリック文学」と「在日朝鮮人文学」であった。
遠藤周作の『沈黙』の映画が1971年、『イエスの生涯』が1973年。李恢成の『われら青春途上にて』が1970年、『砧をうつ女』が1972年。高校生の時に出会ったこれらの作品が、自分の生き方を考えさせ、何をどう具体的に周囲の人々に示そうかと、頭と心を悩ませた。
同時に、歴史の先生になりたいと思っていた私は、国籍条項ゆえに、公立学校の教員にはなれないことを知り、ならば私立でと思い立ち、カトリック系の大学に進むことを決めた。そして、中世ヨーロッパの教会史と哲学を志すようになった。
私の読書体験は、自分のうちに何か問いがあって、答えを見出だそうともがいている時に、ある書物と偶然出会い、それをきっかけに、考え方と生き方の方向性を決めたということに尽きる。読書量を誇るほどに本を読んだことはない。読み漁ったという体験もない。出会った一冊の本を、自分の背景のうちに読み、自分ために何かを学び取っただけである。
最近あまり本を読まなくなった。自分のうちに問いがなくなると、本との出会いもなくなるからであろう。ぼちぼち、人生の旅路の終わりかな、と思う。
(り・せいいち=上智学院カトリック・イエズス会センター長)
李聖一
り・せいいち=上智学院カトリック・イエズス会センター長