戦争は不条理の塊である。ウクライナでも、ロシアでも悲しみと怒りが渦巻いている。戦争の被害者に罪はない。彼らの多くが「なぜ私たちが…」と考え、その怒りのすべてをロシアにぶつけようとしている。ウクライナが、大国ロシアに決して屈しないのはこの怒りがあるからだ。私たちには、この怒りをなだめることはできない。
一方で、ロシアでの生活を自分の一部としてきた私は、その攻撃の根本にあるものが、大国主義的な利益関心のみによるものではなく、むしろ「なぜ私たちばかりが…」という怒りであることを知っている。なぜ私たちの価値観は蔑まれるのか、なぜ私たちがいつも悪者にされるのか…。これもまた、答えを求める問いではなく、怒りであり、私たちはこれをなだめることも、その言い分を認めることもできない。
悲しみと怒りをぶつけ合い、力によって正義を証ししようとする限りにおいて、平安は訪れない。終わりの見えない戦争の現実を目の前に、私たちが祈ることは、何の役に立つのか?
アウシュヴィッツを経験した同胞と共にあり、ひとり息子を失ったラビであるH・S・クシュナーの神は、「不運や病気や残虐が存在する世界を創り、それらがあなたをおそうのを防ぐことができない」不完全な存在である。しかしそうした神を赦し愛す時、神は虐げられた者と共にあり、私たちを孤独にせず、生き続ける力と希望と勇気を与えてくれる存在となる。あまりにも有名な『現代のヨブ記』を、今ふたたび、なるべく多くの人々と共に読みたい。
「神よ、戦争を終結させたまえとは祈りません/自分と隣人のなかに/平和への道筋をみずから見いだすべしと/神がこの世を創られたことを知っているのですから/…/ですから神よ/ただ祈るのではなく/力と決断と意志をのみ/われらは祈り求めるのです」
(たかはし・さなみ=九州大学人間環境学研究院講師)
高橋沙奈美
たかはし・さなみ=九州大学人間環境学研究院講師