【特集】グノーシスを学ぶなら▼この三冊!(土井健司)

 グノーシスという言葉の響きにはどこか惹かれるものがある。異国情緒に満ちていて、尋常でない深淵な知恵というところであろうか。しかし、その歴史的実態を捉えるのはまったく容易ではない。関連書は日本語のものでも数多くあり、三冊に限定するのがむずかしいが、バランスを考えつつ選んでみた。

ハンス・ヨナス著『グノーシスの宗教【増補版】』
秋山さと子/入江良平訳、人文書院、二〇二〇年.


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『グノーシスの宗教【増補版】』
・ハンス・ヨナス:著
・秋山さと子、入江良平:訳
・人文書院
・2020年
・A5判486頁
・5,280円

 「われわれの紀元の初めの頃の霧のなかに神話的形象の壮麗な行列がおぼろな姿を見せている。これらの形象の巨大で超人的な像─それがもうひとつのシスティナ大聖堂の壁と天井を埋めたとしても見劣りはしないだろう。彼らの行為と所作、彼らに割り当てられた役割、彼らの演ずるドラマのあたえるイメージは、われわれ観客の想像力を培ってきた聖書のドラマとは異なっている。だかそこには不思議な懐かしさがあり、妙に心をかき乱すものであるだろう。」
 この魅力的な書き出しは、ハンス・ヨナスの『グノーシスの宗教』の序文の冒頭である。グノーシスという言葉の醸し出す魅力を見事に表現している。ヨナスは一九二〇年代に大学で哲学を学んでおり、ルドルフ・ブルトマンのゼミに出席することでヨハネ福音書における「神を知ること」をテーマに発表し、ライツェンシュタインの影響も合わせて、グノーシス研究に入り込んで行った。その動機はギリシア哲学をはじめとする二世紀、三世紀の古代の精神世界のなかで「認識」(グノーシス)が何を意味するのかを究明したいというものであったという。こうして学位論文『グノーシスの概念』が仕上がり、そののちに二世紀の神話的グノーシスの研究を深めて『グノーシスと古代末期の精神』第一部の原稿を一九三三年に完成したという。しかしユダヤ人のヨナスにとってもはやドイツで教授資格論文を提出するどころでなく、彼はイギリスに亡命する。さらにその後テーマを古代末期の精神状況からグノーシス主義に特化し、また一般向けに書き改めて、この『グノーシスの宗教』を公刊した(一九五七年)。

その第二部「グノーシスの諸体系」では資料をもとに、シモン・マグス、『真珠の歌』、マルキオン、ヴァレンティノス派といった個々の事象に立ち入って論じるが、とくに魅力的であるのは第一部であろう。そこでは「グノーシス」と呼ばれる諸派に見られる世界に向かった根本体勢の特徴が論じられている。「グノーシス的イメージとその象徴言語」と題された第三章は、「異邦のもの」、「彼方」、「外」、「この世」、「他の世界」、「光と闇」、「転落」、「沈下」、「捕囚」などのグノーシス文書に頻出するというイメージについて論じている。ナグ・ハマディ文書がほとんど取り上げられていないなどの資料面での欠点はあるものの、ヨナスの本は「グノーシス」の思想・イメージ分析の点で今日でも光彩を放ち、魅力に満ちている。随分以前に邦訳が出版されているが、「第三版への序文」を加えた増補版が最近出た。

荒井献・大貫隆・小林稔・筒井賢治編訳
『新約聖書外典 ナグ・ハマディ文書抄』、岩波文庫、二〇二二年.


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岩波文庫
『新約聖書外典 ナグ・ハマディ文書抄』
・荒井献、大貫隆、小林稔、筒井賢治:編訳
・岩波書店
・2022年刊
・文庫判510頁
・1,518円

 二十世紀は考古学上の発見が相次いだ時代であったが、「死海写本」(一九四七年)と並んで、一九四五年の「ナグ・ハマディ文書」の発見は一世を風靡し、初期キリスト教の研究に拍車をかけたといえる。邦訳は荒井献を中心とするチームが精力的に取り組み、岩波書店から四巻本の『ナグ・ハマディ文書Ⅰ─Ⅳ』として公刊されていた。今年になって岩波文庫として出された『新約聖書外典 ナグ・ハマディ文書抄』は新約聖書外典に数えられるものを選び出し、また二一世紀になって公にされた『ユダの福音書』を含めて編まれている。なお翻訳や解説は基本的に再録となっている。
 正統派教会から不当に弾圧されて異端派とされたグループが秘かに伝えた真実、これらグノーシス関連文書に対する世間による当初の期待であったのかもしれない。「封印された真実」などのキャッチについても見たような覚えがある。しかし実際は、こうした単純な図式で括ることは夢物語にすぎず、一つひとつ気の遠くなるような文献研究が必要となる。外典文書、つまり福音書、行伝、黙示録といったタイトルをもつ古代の諸文書の多様性は一筋縄ではいかない。

 たとえば『ペトロの黙示録』という文書がある。教文館刊の「聖書外典偽典」の補遺Ⅱに収められているが、二種類の本文が残っていて、エチオピア語版と「アクミーム断片」と呼ばれるギリシア語版となる。以前中絶問題で論文を書いたとき参照したことがあったが、来世では女性が糞尿の池に首まで浸かって拷問を受けており、中絶された胎児が目から光線を出してその女性たちの眼に穴をあけるという(八章)。この典型的とも言うべき地獄絵図は、当時の社会状況、雰囲気を背景とするものであろうが、中絶胎児の無念と復讐とを描いている。アクミーム断片は簡略に記されており、エチオピア語版の方は詳しく描かれている。では『ナグ・ハマディ文書抄』に収められているコプト語の「ペトロの黙示録」にはどのように記されているのかを確認しようとすると、なんとこの記事が存在していないのである。いや、その記事だけでなく、まったく内容が違う。つまり同じ「ペトロの黙示録」という表題をもっていても、異なる文書なのである。
 外典文書を扱う時には同じタイトルでも内容がまったく異なる文書、さらに伝承過程で複雑に編集を施されたもの(その結果、全く別物になった可能性もあろう)等などに注意を払わなければならないのであって、素人が手を出すのは危険であろう。この点で『ナグ・ハマディ文書抄』は、大貫隆による詳細な序文、また各文書の解説などなど一つひとつ丁寧に取り扱われていて、直接「ナグ・ハマディ文書」を読むには最適の一書となっている。

クリストフ・マルクシース
『グノーシス』土井健司訳、教文館、二〇〇九年.


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『グノーシス』
・クリストフ・マルクシース:著
・土井健司:訳
・教文館
・2009年刊
・四六判176頁
・1,980円

 それにしても「グノーシス」とは何であったのか。グノーシスとは認識、知識を意味する一般的なギリシア語であって、そもそもプラトンやアリストテレス等のギリシア哲学者も真の認識、グノーシスを求めたと言える。またこれをキリスト教内部の運動に限ることもできない。一定の傾向、世界理解としてこれを捉えるのが順当だと思われるのだが、これはクリストフ・マルクシースの『グノーシス』に詳しい。
 この問題について彼は類型論的モデルで答えている。つまり以下の条件を備えたものが「グノーシス」に数えられるという。
一、まったく彼岸の、遠い至高の神の経験
二、とりわけこの経験を条件とした、いっそう広範囲の神的諸像の導入
三、世界と物質についての悪しき被造物としての評価
四、自らの創造神あるいは守護神の導入
五、自らの領域から墜落した神的要素がある階級の人間の内部で神的火花として眠っており、解放されるという神話的ドラマにより現状を説明すること
六、この現状は上位から降り、そして上昇する彼岸の救済者像をとおしてのみ説明できるという認識
七、神は自らの中にあるという認識を通した救済

 『グノーシス』では「グノーシス」とは何かという問題に加えて、資料問題、ヴァレンティノス派など「グノーシス」に数えられる各派の教説、そしてその終極点としてマニ教が取り上げられている。いつもながらマルクシースの議論はコンパクトで要点を外さないのが特徴である。さらにキリスト教内のグノーシス主義者は独自の教会をもっていたのか、といった踏み込んだ問題についても丁寧に論じていて興味が尽きない。

書き手
土井健司

どい・けんじ=関西学院大学神学部教授

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