デボーションの真髄
〈評者〉藤本満
著者は、日本イエス・キリスト教団の六つの教会を牧会し、その間、関西聖書神学校の校長をも務めた。二〇二一年には『チャレンジ 聖書通読』、そして昨年末、『チャレンジ デボーション』を著した。
本書の前半で「祈る」ことの真髄を説き明かし、後半は「付録」としながらも、同等の頁数を割いて「わかりやすい聖化論」と題して、キリスト者の完全/きよめ/聖霊のバプテスマをまとめている。
瞬時的な体験を強調するあまり、きよめ派が時として人格形成・教会性・社会性を見失う傾向があったことを認め、その歪みを是正するように丁寧に語っている。だが、それによって真実な福音の賜物を薄めることはない。聖霊のバプテスマを体験しても、「桃栗三年、柿八年」。いくつもの結実を得るために、イエスにとどまり、聖霊によって成長することが尊ばれる(一六八頁)。その秘訣が「聖書通読」と「祈り」である。
「聖書通読」「デボーション」「聖化論」は、3部作となって、著者が育てられ、生きてきた霊的遺産を明らかにしている。
著者は、小学一年生のときから聖書を音読して学校に行くという家庭に育った。その日に必要な神の語りかけを聖書から聞くという「聖書通読」は、すべての信仰者に不可欠な恵みであることを著者は強調している。関西から関東の大学を受験する前の夜、とある教会の一室に泊まり、妙に緊張してよく寝られず、試験当日の朝、いつものように聖書を開いたときのことであった。
「心臓がとまるかと思いました……その日その朝に最もふさわしい御言葉を、主は用意してくださっていました」(『チャレンジ 聖書通読』24頁)。著者にとって聖書を神のことばとして信じることは、日々語りかけてくださる神の声を信仰をもって聞くことに他ならない。
したがって、『チャレンジ デボーション』の第一章は「聴く祈り」である。日々生ける神のことばを聴くとき、人生の様々な局面にある私たちは、羊飼いなる神によって力づけられ、慰められ、導かれ、その日を生きる十分な備えが与えられる。
「デボーション」という用語は、ラテン語のレクチオ・ディビナ(聖なる読書)に由来する。修道院では、日々、聖書を音読し、黙想し、応答の祈りをしていた。この霊的営みが修道院の外に出て、オランダを中心とした「新しい敬虔」(devotio moderna)と呼ばれる運動となる。トマス・ア・ケンピスの『キリストにならいて』はその結実である。英国ピューリタンにおいて、デボーションは日々の個人礼拝として尊ばれた。祈りそのものとなる詩篇は、携帯できる聖書となる。ドイツ敬虔主義とメソジストにとって、デボーションは神との交わりそのものとなる。
デボーションの精髄を生きた宣教師B・F・バックストンは、敬虔な魅力をもって日本の教会に力を与えた。著者はその霊的遺産を今に伝えようと「チャレンジ」している。礼拝で説教を聴くだけでなく、日々、神の声を聴き、キリスト者として生きる力にあずかる。聖書が生ける神のことばであると信じることとは、そのような信仰である。




















