詩編を愛した教父の肉声を伝える説教
〈評者〉加藤武
アウグスティヌス著作集 第19/Ⅱ 詩編注解(4)
アウグスティヌス著
荒井洋一、出村和彦、金子晴勇、田子多津子訳
A5判・814頁・定価10450円(税込)・教文館
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アウグスティヌスは詩編が大好きでした。詩編について、彼はこのように述べています。「この森の中には鹿も住んでいて、森の中に深くはいってゆき、憩い、歩きまわったり、草を喰んだり、ね転んだり、嚙みなおしたりしています」(山田晶訳『告白Ⅲ』中公文庫、二〇一四年、一〇─一一頁)。この森とは詩編のことです。
『詩編注解4』は、彼の最大規模の著作Enarrationes in Psalmos の邦訳四分冊目で、七六編から一〇〇編までの注解ないしは説教を収めています。今回はその中から、詩編七六編と八〇編を取り上げてみましょう。
その1 詩編七六編二節
では、詩編七六編二節をご一緒に見てゆきましょう。表札にあたる表題の「エドトン」という語は、《彼らを飛び超えて行く人》のことだといいます。エドトンは言います。
「わたしの声によってわたしは主に向かって叫んだ。そしてわたしの声は神へと向かう」「あなたが神を通して他のものを探し求めないときに、神はあなたへと向かう。……彼らは主へと向かって叫ぶことをやめなかった」(以上一九頁)。ここでは、《叫ぶ》と《主を内へと呼び入れる》と違いがあることに、慧眼な訳者の荒井洋一氏は注目しています(註6参照)。
その2 詩編八〇編一節
次に、詩編八〇編は次のような表題を持っています。「(ぶどうの)圧搾機のために」。ここでは、二つの詩編の主想を見出し、字義通りでなく、「現在働きをなしている教会の神秘として受け取りなさい」(以下一四七頁)と言っています。でも早合点は禁物、《圧搾機》と付け加えているのです。その先で言います。「油は濾されて樽の中へと注ぎこむ。油かすは公然と街路を通って流れ去る。……はたして円形劇場での狂気乱舞といえどもこの光景に比較されるべきものだろうか。あの狂喜乱舞は油かすに属し、この光景は油に属する」と対象法を用いて言います。アウグスティヌスはこの「大いなる光景」に目を輝かせて見入っているのです。一つの映像がもう一つの映像を喚起します。
これは論理的な類比でなくて、プルーストの作品の或る箇所を思わせる映像的な類比です。
その3 説教という即興演奏
これらアウグスティヌスの詩編の《注解》の仕方は、大学の講義のように教師がノートを読むにつれて学生が筆記するという形式ではなくて、北アフリカの大都市ヒッポやカルタゴ、またロバに乗って辺境の地を巡る旅の途中で、伝道のために立ち寄った会堂での《セルモー》、つまりオーラルな話であったことに目を向けましょう。そこでは、語る司祭や司教は司教座の椅子に座り、会衆は全員立っています! ときには話が二時間も続いて疲れたり、ときには難解だったりすると、会衆がガヤガヤ騒ぎ出すことがよくありました。すると、「インテンデ!(シーッ、ご注意を!)」という制止の語詞が飛び出すのです。彼の説教は、あらかじめ下調べをしてワープロで作って印刷しておいた原稿を読むのでなく、前巻(『詩編注解3』七二七頁)で水落健治氏の言う《自由自在な即興》なのです。「そのとき上から与えられる」という信頼にもとづいて。
加藤武
かとう・たけし=立教大学名誉教授