無理解の凄惨な帰結に直面する今こそ必読の基礎知識
〈評者〉森本あんり
アメリカとイランはいま全面戦争の状態にあるが、一九七九年にイスラム革命が勃発するまで、イランは模範的な親米民主国家だった。いや、少なくともアメリカはそう思い込んでいたのである。革命が勃発するほんの一年前、カーター大統領はテヘランで優雅な晩餐会に出席していたし、CIAですら革命前夜までその機運に気づいていなかった。なぜアメリカは、イランの宗教的熱情という巨大なマグマ塊にかくも無感覚であり得たのか。その理由の一端が、本書に隠されている。
一九七九年は、ジェリー・ファルウェルの「モラル・マジョリティ」が創設された年でもある。当時アメリカ国内ではいわゆる「第二波ファンダメンタリズム」の勃興が進んでいたが、識者たちはそれを「無知蒙昧で無教養な熱狂主義」あるいは「伝統的信仰を装った薄っぺらなマキャベリ的野心」と見なして真剣に取り扱おうとしなかった。背景には、そもそも宗教という現象を知的に論じることを拒否する近代啓蒙の偏見がある。中東で起きつつあった宗教的熱狂への無理解は、国内のファンダメンタリズムに対するこうした無理解の延長に他ならない。今日の世界は、その無理解の凄惨な帰結を刈り取っているのである。今こそ本書は読まれねばならない。
本書の前半は、「ファンダメンタリズム」という名称の出発点となった一九世紀末以来の教義論争、プリンストン神学校を舞台とする聖書無謬論の展開、再臨や千年王国論をめぐる聖書引照の流行、戦後の福音派復権に貢献したビリー・グラハムの全国民的な人気などをていねいに解説する。特に秀逸なのは、従来の研究が見落としてきた女性史との重ね合わせによる洞察である。ファンダメンタリズムは、これまで進化論や聖書批評といった神学的な争点における反動として理解されてきた。しかし、時代はちょうど「華麗なるギャッツビー」に象徴される奔放で自由な女性像を提示していた。こうした「新しい女性」像への反発が結婚や家庭に関する伝統回帰となってファンダメンタリズムに合流したのである。現代の女性たちがなぜ旧守的とも見える家父長的なキリスト教を求めるのか、と尋ねられることが多い。その答えは文献読解の中にあるのではなく、彼女たちが生きるコミュニティに参加して得られた文化システムの体験という次元にある、というのが本書の教えるところである。
後半では狭義のプロテスタント界を離れ、カトリック、イスラム教、仏教やヒンドゥー教などへも拡大可能なファンダメンタリズムの共通像を模索する。諸宗教の違いを超えて見いだされるのは「聖なる家が火事になっている」という危機感と切迫感だが、同時にその概念の拡大適用には「文化帝国主義」という危険が伏在している、という指摘にも留意しておきたい。
巻末あとがきには、訳者と大住雄一氏を含む数人がICU内の拙宅で開いていた神学研究会のことが記されている。懐かしい想い出である。本書が優れた内容であるだけに、旧友の藤原さんには「ありがとう」といっしょに「何でもっと早く出してくれなかったの」と恨み節をぶつけたい。原著出版は二〇〇八年で、訳者跋には「二〇二三年四月」とある。その後の三年間、この本はいったいどこに眠っていたんだよ!















