二〇世紀の新約学の金字塔、待望の翻訳出版!
〈評者〉山口希生
先日のミュンヘンにおける安全保障会議で、アメリカのヴァンス副大統領は並み居る欧州首脳を前にしてヨーロッパで言論の自由が後退していると指摘し、深い(不快?)衝撃を与えた。とりわけヴァンス氏が例として挙げた、イギリスで祈っていただけの人が逮捕され罰金刑を課されたという話は、かつて英国で暮らしていた評者には俄かには信じがたく、イギリスの友人にすぐに真偽を確認したほどだった。しかしそれが事実だと知り、再度ショックを受けた。だが、行き過ぎとも思える欧州でのSNS等の検閲の背後には、過去に対する深い反省があることも忘れてはならない。宗教改革者のマルティン・ルターが晩年に書き残したユダヤ人に対する記述は現代の私たちには読むに堪えないもので、特に今日のドイツでは間違いなく「偽情報」や「デマ」として禁書扱いされるだろうが、それはそうした言説がナチスドイツの時代に亡霊のようによみがえりナチスの反ユダヤ政策の正当化に使われてしまったことへの痛切な自責の念によるものだ。
そして、こうした反ユダヤ主義の亡霊に蝕まれてしまったのは実は西洋のキリスト教神学なのだということを白日の下にさらしたのが本書である。その意味で、本書は上述のヴァンス演説以上に二〇世紀のキリスト教界、特に新約聖書学界に衝撃を与えた。評者の乏しい経験に照らしても、「革命」という言葉で評された書は後にも先にも本書しかない。サンダースによって書かれた本書の学問的誠実さは疑う余地がない。一九世紀、二〇世紀における新約学界の巨人たちが古代ユダヤ人の手による一次文献を「そのもの」として読むことをせずに、先行研究に無批判に追従したり、あるいはキリスト教神学の色眼鏡で読んできたというサンダースによる告発は事実として認めざるを得ないし、あらゆる新約学の徒に警鐘を鳴らすものであろう。
同時に、イエスやパウロの時代のユダヤ教が「行為義認」の宗教ではないというサンダースの主張が正しいのならば、西洋のキリスト教神学、とりわけプロテスタント神学はこれまで五百年にわたって築き上げてきた自らの伝統を根本的に再検証しなければならないことになる。なぜならキリスト教は自らを定義する際に、あまりにも多くの場合に安易に『ユダヤ教』を反面教師として描いてきたからだ。もしキリスト教との関係でユダヤ教についてなにがしかのことを書くのであれば、ユダヤ教の外典・偽典を含めた多くの一次文献を曇りのない目で読み込まなければならない。ユダヤ教があくまでキリスト教とは対極にある「行為義認」の宗教であると主張したいのであれば、ユダヤ教の文献そのものからそれを立証しなければならないということだ。なるほど「イエスはユダヤ人の偽善を厳しく非難しているではないか、それで十分ではないか」という反論もあろうが、彼自身がユダヤ人であるイエスの言葉の意味を正しく捉えるためには、彼の同胞たちの神学的立場の多様性や様々なニュアンスを正しく認識しなければならない。これは大変な作業であるし、可能ならば避けて通りたいと思ってしまうかもしれない。だが、西洋キリスト教の最大の暗部である反ユダヤ主義を克服するためには、これは避けては通れないことなのだ。末尾になるが、この大著の翻訳という偉業を成し遂げた浅野淳博氏の功績をたたえたい。