「たからさがし」は疲れに効く!
〈評者〉上田亜樹子
おそらく私たちは、何かを失うことについては非常に敏感だ。それは苦痛を伴うし、罪悪感や怒りまでおまけとしてついてくるので、時間が経っても何をどの程度失ったのか、いつまでも数え上げる。しかし、すでに与えられている恵みについては、ほとんどカウントしない、というかできない。悪気はないのだが、恵みは在ってあたりまえ。また、自身の努力で獲得したと信じているものしか数えないから、恵みに気がつきにくいのかもしれない。
日常の些細なことの中にも、恵みはたくさん潜んでいる。でも、通勤電車が時刻通りに来なかったり、パソコンがフリーズしたりすると、途端にパニックに陥る。今までできたことを急に失うなんて、なぜ、今こういう目に私が遭わなくてはならないのかと落ち込む。そんな中で、望月麻生先生の『たからさがし』は、わたしたちが受けている恵みにちゃんと「目を留めよう」と、率直に呼びかけているように思う。
すでに与えられているが、気づくこともなく放置されている「恵み」に目を向けるのは、きれいごとでも、そんなにカッコいいことでもない。また、もっと気楽に生きられる、優位になれる、ということでもない。それは素朴で、地味な努力によるものだ。当てが外れることや、解決したことのない困難に直面するのは偶然ではなく、何かしら学ぶことがあるはず、という神への信頼に基づいている。
私が一番好きなくだりは、「ピアノ」というタイトルのついた「ヘタになる」話である。ピアノのレッスンを再開した著者が先生から「ヘタになってきたね」とうれしそうに言われ、最初は困惑した。しかし、その先生によると、人の成長は同じペースで進んでいくのではなく、意外にも練習をたくさん積んだのち一旦は「ヘタに」なってから、初めてのような気持ちで一から練習を重ねると上達する、と教えられた話である(だいぶ私の解釈が入ってしまっているかもしれないが)。
「一旦ヘタになる」ことは、牧師なら説教や牧会カウンセリングで、また誰でもさまざまな分野で経験するのではないだろうか。うまくいかなかった経験を経ても努力を重ねると、ある程度は克服した段階に辿り着けたような気持ちになる。しかし、これでイケると思って、その先も同じことを繰り返してばかりいると、自分の底力のなさを思い知らされる事件に必ずぶち当たる。そして、あれだけ準備したのに、なぜ「魔法」が効かなかったのかと立ちつくす。そんなとき、もうこれ以上何をしたらよいのかわからないと絶望するのではなく、今一度、原点に戻り、神さまから預かっているたくさんの恵みに信頼して、「ヘタになる」状態から、再出発するということなのではないか。
力尽き、何もする元気がないとき、長い文章を読むのは覚悟がいるが、この本は手に取りやすい。春夏秋冬の四季に分けられた章の中に、エッセーが6つずつ並び、いずれも4ページで1話が完結する。疲れたときに行き当たりばったりにページをめくり、何も考えずに1つだけ、もう少し行けるなら、2つ読んでもいい。また、もしあなたの心に、疲弊した誰かの顔が浮かぶなら、その人へのプレゼントにいいかもしれない。