繊細かつ劇的で虹色の光を放つ水滴のような言葉
〈評者〉久松英二
本書は、イエスの死と復活にまつわる福音書の記述に関わりのある人物やモノを素材として、著者が豊富な聖書知識をイマジネーションと斬新な発想でアレンジし、8編のショートストーリーに紡ぎあげた珠玉の作品である。
たとえば、第1話「赤いゆり」は、純白のゆりが少しずつ赤みを帯びて、最後には深紅に染まるプロセスを、受胎告知、カナの婚宴、ラザロの復活、磔刑後のイエスを乗せた荷車の移動という時間経過の中で描出している。もちろん、福音書にはそのいずれの場面にもゆりは登場しないが、著者は明らかに受胎告知の図像で定番の大天使ガブリエルが手にしている白ゆりから着想を得たと思われる。純潔を連想させる純白のゆりを天使からもらったマリアは、やがてぶどう酒の奇跡で盛り上がるカナの婚宴の喜びを象徴する「ワインレッドのような赤色」のゆり、ラザロに吹き込まれた新たな命を謳歌する「みかん色、うす紅色、桃色」のゆり、そして最後に十字架で流した我が子の血を象徴する「真紅」のゆりに出会う。ゆりの色の変化がマリアの心の動きと連動していく様は、繊細かつ劇的である。
アレゴリカルなストーリーとしては、本書のタイトルにもなっている「私が十字架になります」が印象的である。イエスの受難が始まる頃、エデンの園に降り立った天使が、そこに集った草木に対しイエスが受難に要する道具となるよう指示する。すなわち、いばらの冠には「パリウルス」というとげのある木が、イエスの遺体に塗られるはずの香油にはオリーブ、バラ、乳香の木が、イエスが纏う一枚の亜麻織物には亜麻が、聖体礼儀によって実現される「救いのはじまり」の杯となるべきぶどう酒には、ぶどうの木が指名される。しかし、最後に「十字架の木」となるべき者を天使が残りの草木たちに募ったところ、役割を終えた後、火に焼かれ灰となる、と告げられたことに恐れをなし、草木たちはいろいろな言い訳をして回避しようとする。そんな中、普段は炭焼き用の木として用いられる「うばめがし」が、その役を買って出る。「私が十字架になります」とはこのうばめがしの言葉だ。ところが、この言葉を聞いた天使が突然豹変し、言い訳した草木たちを「炎の剣」で焼き滅ぼそうとする。すると、うばめがしが「神よ、かれらはなにをしているのかわからなかったのです。どうか、おゆるしください」と、十字架上のイエスと同じ言葉で懇願し、天使は剣を鞘におさめる。イエスの死と復活を共に経験したうばめがしは、いまやエデンにおいて「善悪を知る木」および「生命の木」と並んで、「十字架の木」として植えられ、記憶される存在となった。
このストーリーには数々の聖書的寓意が発見される。聖書に親しんでいる人ほどそれは理解される。8編全部がそのように象徴と寓意の宝箱のような濃密な内容となっているが、聖書の知識がなくとも、それなりの理解の仕方で読者の心に深い感銘を与える作品となっている。特筆すべきは、8編のいずれも虹色の光を放つ水滴のような言葉が散りばめられた美しさと哀しさと優しさに満ちた物語となっている点である。著者は正教司祭であるが、宗派の違いを超えた普遍的心性に根差す作品であること、またイコン画家の白石孝子氏の挿絵と詩人でエッセイストの山崎佳代子氏のあとがきも秀逸であることを申し添えておく。
久松英二
ひさまつ・えいじ=龍谷大学国際学部国際文化学科教授