伝道と牧会の現場から紡ぎ出された組織神学書
〈評者〉山口陽一
水草牧師の口癖は「要するに」である。煩雑な議論を咀嚼してまとめてくれるので、ややこしいテーマも、スッと理解できて、ありがたいことこの上ない。私が牧師として仕えていた日本同盟基督教団徳丸町キリスト教会の一九九〇年度の夕拝で、神学校の同級生である彼に教理説教をしてもらい、これを七一頁の小冊子にしたのが『神を愛するための神学講座』第一版だった。手作りで増補を重ね、二〇〇〇年の第四版できちんと製本され、ウェブ掲載、雑誌『舟の右側』連載と、その後の大幅な加筆により本書が完成した。地方での開拓伝道と牧会を続けつつ、すぐれた神学教師としての三〇年の営為の成果である。
被造世界の多様性と統一性を、著者はこんな身近なたとえで説明する。「おにぎりは強く握りすぎると団子のようになって美味しくないし、弱すぎるとバラバラで食べにくいものです。存在論的にすぐれたおにぎりとは、一体性を保ちつつ、しかも、一粒一粒のお米が生きているものです。大切なのは多様性と統一性のバランスです」(一六一頁)。
哲学から組織神学に進み、教理史にも造詣が深い彼の用語と定義は確実で、論理は明快、研ぎ澄まされた言葉を随所に見出すことができる。たとえば、創世記冒頭の「混沌」より「茫漠」(一八六頁)、ヨハネ福音書冒頭の「神とともに」は「神に向かって」がより適切(一四〇頁)など、聖書翻訳への言及。「贖罪論」ではなく「贖い論」、「古典説・劇的説」を「対悪魔勝利説」と言い換え(三一六頁)、「国家」ではなく「俗権」(五〇六頁)を用いるところなどである。父・子・聖霊の神(一二三頁以下)、人間の構成について二分説と三分説を語るところ(二二九頁以下)、予定論論争をどう考えるか(二六三頁以下)などの整理の仕方は抜群である。また、古代教父の教えを継承した「『神のかたち』のかたち」としてのキリスト論的人間論が、聖書理解の鍵として一貫して展開されている。聖定のゴールを見定めること(一四七頁)とか、試練が神の民の成熟にとって重要(二〇三頁)などの視点、「偶像(被造物)の前にひざまずき拝むことは愚かである。人間は、むしろそれらを治めるべきである」(一五八頁)、十字軍精神でなく十字架につけられた精神(三一二頁)など、深い洞察から紡ぎ出された言葉が心に残る。
しかし、何と言ってもこの本の眼目は、バランス良く神学の全体を自家薬籠中の物として語り尽くす総合力である。聖書の啓示の特徴とその解釈のあり方を示し、改革派神学をベースに持ちつつも特定の神学に拘泥せず、一貫して聖書から「神のご計画の全体」を学ぶ助けとなりたい、これが本書のめざすところである。
「創造記事と進化論」(一六五頁以下)や「E・P・サンダースとN・T・ライトの義認解釈」についての付説(三六九頁以下)などは、突っ込んだ議論がなされており、創造の六日間の「日」の解釈にも独自の意見を述べて、怯むところがない。サン・ヴィクトール修道院のリチャードの三位一体論は、第四版でも紹介されていたが、理解が一新されており、思索の深まりを覚えさせられた。
本書は、日本の福音派の組織神学として待望の著作である。これを巡る議論が交わされ、『新・神を愛するための神学講座』が、神学の公共財として成熟していくことを願ってやまない。
山口陽一
やまぐち・よういち=東京基督教大学学長