ボンヘッファーの生涯と課題をみごとに描出
〈評者〉平林孝裕
本書はイルゼ・テートによる同名の著書の翻訳である。夫ハインツ・エドゥアルド・テートの死後、『ボンヘッファー全集』の総編集者に就いたイルゼ氏が、さまざまな機会に行った講演を集めたものである(とくに第3章は、テートが来日した際に日本で行った講演である)。そのような成り立ちであるが、講演本文は見直されて一貫した著作として読めるように整えられている。テキストを知り尽くした著者が「言葉で描き出した12章」はボンヘッファーの生涯の歩みにしたがって配列されおり、「伝記」(岡野)としても読むことができる。ただし、著書も注意するように「ユダヤ人問題」「成人性」ほか、いくつかの主要な論点は論究されない。その制約を別にすれば、年譜などの資料も整えられて読者に親切な著作となっている。
ボンヘッファーの生涯を概観した「『善き力に不思議に守られて……』」(第1章)に始まり、その死を扱った「死と復活」(第12章)で結ばれるが、本書を貫いているのは「善き力に不思議に守られて…」(『讃美歌21』四六九番参照)という婚約者マリーア・フォン・ヴェーデマイアー宛の手紙に記された一編の詩である。
本書は前半六章と後半六章に分かたれるように思われる。
前半では、ボンヘッファーがいかに聖書に聴いたかが描き出されている(第4章はまさに「ボンヘッファーの生涯における聖書」である)。その態度は一言でいうなら「幼子のように」、ボンヘッファーの言い換えでは「子どもとして」である(第2章「子どもたちの友」)。「反省的」な態度に「直接的」な態度が対置され、「単純な」従順が導かれる。ドイツを逃れてアメリカに渡っていたボンヘッファーが、聖書の言葉「冬が来る前に……」(Ⅱテモテ四・二一)を機縁に、わずか一カ月で帰国する決断を下したことは、つとに知られる。「ボンヘッファーとテモテ」(第六章)では、ボンヘッファーが聖書の言葉にどのように聴いてきたが鮮やかに「描き出」される。
後半では御言葉にいかに従うかが焦点となる。それは「冒険」(第3章)でもある。具体的に何が神の御心であるかを「見きわめ」(第7章)、行動するにしても、「二重の光」の中で責任を引き受けつつ決断されるからである(第8章、第9章)。評者が興味深く読んだのは「『聖なること』は難しい?」(第11章)であった。本章では「聖化」をめぐってカール・バルトとボンヘッファーのやり取りが「描き出」される。バルトもボンヘッファーも互いの見解に懸念をもっていたが、私たちは夫テートの言葉のように「どちらかを一人を選ぶ必要はない」(第3章)。むしろ自分の課題として「(義認と)聖化」について思いめぐらすべきであろう。
『ボンヘッファーの人間学』で学位を取られた岡野彩子の翻訳は、文章が簡潔に分けられており非常に読み易かった。訳語も工夫され、たくさんのルビが付されたおかげで原文の趣きを味わうことができる。本書はもともと山﨑和明先生と共訳する計画であったという。岡野氏がこの訳業を果たされたことを先生も喜ばれていると思う。二〇二四年はバルメン宣言から九〇周年であった。そして二〇二五年はボンヘッファー没後八〇年となる。世界が暴力・戦争で混迷を深める中、時宜を得た出版に感謝したい。