新しいパラダイムの誕生
〈評者〉片柳弘史
東日本大震災の被災地、石巻で、被災地支援に取り組みながら、デイヴィッド・ボッシュ著『宣教のパラダイム転換』(東京ミッション研究所刊)の読書会を行っている川上直哉氏が、キリスト教放送局日本FEBCの統括ディレクター補佐、長倉崇宣氏と日本FEBCの番組の中で行った話題の対談が一冊の本になった。ボッシュの提唱した枠組みに基づいて、現代の「宣教のパラダイム」そのものを問い直しつつ、東北被災地支援の現場で今まさに生まれつつある新しい「宣教のパラダイム」を紹介する、画期的な内容となっている。日々の宣教活動の中で行き詰まりを感じつつ、なぜ宣教が行き詰ってしまったのかわからずに悩んでいる教職者、信徒にとって、かつてないほど大きな刺激となるに違いない。
現代日本における宣教は、「啓蒙主義(民主主義)」の影響によって信徒の数を増やすことを重視し、また「帝国主義と植民地主義」の影響によって自分たちの考え方を人々に押し付けようとする傾向があるのではないかと川上氏は指摘する。何より大切なのは「自分自身の救い」であるにもかかわらず、他にもたくさんの人が信じていないと落ち着かない。相手の苦しみに共感しないまま、自分たちのやり方、考え方を押しつけようとする。そのような態度に対して、川上氏は、自分自身が体験した救いの実感に基づいて、自分の言葉で力強く語ること。人々の苦しみに共感しつつ、「地域に奉仕するために、教会にしかできないことに、ひたすら専念する」「教会の持続性を得るために、教会にもできることは、なんでもする」ことを提案する。信じている人の数に左右されない本物の福音に立ち返る、「教会に人々を集めるためにどうしたらいいか」という教会中心の考え方から、「教会は人々のために何ができるか」という民衆中心の考え方に転換するということだ。
「『聖書』を偶像にしてはいけない。聖書を自分の言葉で語り直し、活き活きと聴き合う中で、神の言葉を聴きとらなければならない」とも川上氏は語る。生きている神は、それぞれの人間が置かれた場所で聖書の言葉を通してわたしたちに語りかけるのであり、その語りかけを聴きとったわたしたちが、それぞれに自分の聴いた言葉で活き活きと福音を語るときにのみ宣教の言葉は力を持つというのだ。
「救い」についての考察も興味深い。救いは「本来『救われた』という完了形で語られるものではなくて、神さまと一緒にいるから、一瞬一瞬『救われて行く』ものだ」と川上氏は語る。キリストの愛に包まれ、キリストの愛を生きているときにのみ、わたしたちは「救われている」ということだ。この考え方によれば、相手を見下しながら、「わたしは救われた。まだ救われていないあなたたちは気の毒だ」という態度をとるとき、わたしたちは救われていないということになるだろう。
この本が提示する新しい視座の中から幾つかを紹介したが、これはほんの一部に過ぎない。全体を読んでわたしが感じたのは、東北にせよ、わたしがいる山口にせよ、宣教の最前線と呼べる場所で働いていると、同じような結論に到達するらしいということだ。新しいものは辺境から、宣教の最前線から生まれるということを信じたい。
片柳弘史
かたやなぎ・ひろし=イエズス会司祭